人生で初めて教会に足を踏み入れたとき



人生で初めて教会に足を踏み入れたとき、
初めて教会にやって来た人というものには、
教会とのつながりというものが、
人生最初で最後のものになる可能性を秘めている。
心の奥底に押し込まれしまい込まれたものを目覚めさせないかぎり、
二度と教会にはやって来ないだろう。

だからこそ、この機会に、
その人にたいして、
イエス・キリストの十字架の出来事が語られていなければならない。
十字架の死によるあがないのわざという出来事が語られなければならない。
イエス・キリストの死と葬りと復活という出来事が語られていなければならない。

この機会こそ、主イエスが備えられたものなのだから。
いつだろうかとか、
いつかそのうちにとか、
知らないうちにいつのまにか語られるのではなく、
今の今にである。

キリストの福音というものは、
何か特別な者のためにではなく、
すべての人にたいして語られるものとして、
この世界を造られた父なる神の究極的な決断と態度決定からなるのだから。
教会は、人間が神に聞くところに存在することを忘れてはならない。
教会は、ただひとりの主を持ち、
たえず、くりかえしくりかえし、
神のみこころ・意志・が語られることによって存在しているのである。

教会は敬虔な人たちだけの教会ではない。
信仰に熱心な人たちだけの教会ではない。

教会は、ただイエス・キリストの教会なのである。
仮にも教会でキリストの福音が語られないのなら、
教会は教会でなくなり、
神の恵みは恵みでなくなるのだから。
神の恵みでないものには、人は引き付けられず離れていくだけなのです。

教会で、たんに敬虔だと呼ばれる、
数少ない日本のクリスチャンたちだけの必要に応じたメッセージが語られるだけなら、
日本の大多数の人たちをキリストの福音から置き去りにすることになる。
キリストの福音は、すべての人に向かって語られてしかるべきものなのだから。

「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。
その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、
自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」

(新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第2の手紙・5章15節・新共同訳聖書)

キリストは、すべての人のために死なれたことを忘れてはならない。
そして、すべての人の生きる希望なのだから。
なぜ死なれたことが希望なのかが語られるところが教会なのです。


北白川 スー

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Wrote up on February 24, 2008.