教会に、来なければよかった



ここまで来たのだから、せっかくだから寄って行こう・・・。
少しは期待もあるから・・・。
なんだか、説教を聞いていたら・・・・、
せっかく、やって来たのに・・・。
自分の気持ちを、受け入れてくれるものと期待していたのに・・・。
なんだか、自分の非を責められているような・・・。
来なければよかった・・・・。

自分の立場や考え方を認めてくれたり、
自分の正しさを擁護してくれると思ったのに、
そのような言葉をかけてくれると思ったのに、
なんだか、自分の非をあばかれているようなんだから・・・。
これでは、だめだ。
・・・席を立って出ていく・・・
来なければよかった・・・と。

教会に来て良かったと思う人と、
来なければ良かった思う人と正反対の印象を受ける人がいるものです。

聖書・バイブルに次のような記述があります。

「なぜなら、彼らは、人を救う神の義を悟らず、
みずからの義を立てようとして、その神の義に従わなかったのです。」

(新約聖書・ローマ人への手紙・10章3節・フランシスコ会訳聖書)

自分の考えが正しいと思っている人にとっては、
自分の正しさを求めている人にとっては、
「神の愛」とか、「神の救い」というものは、なかなか分からないのかもしれません。
不満や期待や不安や恐れなど、自分のことばかり頭の中にある人は、
「神が見ておられる」という”神の視線”を感じとることは難しいのかもしれません。

神の愛に抱かれる安堵感とでも言うべきもの・・・を感じとれるなら、
今まで見えていないものが見えてくるチャンスなのです。
今まで見えていなかった自分自身の姿というものが見えてきたとき、
神は、自分を見捨てておられなかったことを見いだすのです。
それは、神の愛を見いだした瞬間なのです。
まさしくアメージング・グレイスな瞬間なのです。
見えていなかった神の愛が見えた瞬間・・・。
それは、自分を受け入れ、そして許すことへの始まりなのです。
自分をゆるすことができなかった自分自身の姿が見えてきたとき、
神は、自分で自分を受け入れられなくなってしまった自分さえも、
受け入れて下さることが分かったとき、
心に、なぐさめがやってくる瞬間なのです。

席を立ち、荒々しく扉を閉じて教会をあとにされた方のうしろ姿を見るとき、
祈らなければならない気持ちにさせられます。
彼の上にキリスト・イエスの平安がやって来ますようにと。
人間の言葉ではなく、神の愛が彼の上に来ますようにと。


北白川 スー

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Wrote up on March 13, 2007.