教会に物足りなさを覚えて
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イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)というの出来事を
真正面に捕らえた者にとって、
福音に出会い、感動を覚え、人生の方向性のステアリングを大きく切り、
そのようにしてイエス・キリストに出会ったクリスチャンたちは、
常にキリストの十字架をその視野に入れている者にとって、
日の出の美しさと感動を知っている者が・・・・、
日の出を心待ちしているように・・・・。
今の教会に物足りなさを覚えている。
イエス・キリストの十字架の出来事が語られない教会にたいして・・・・・。
変化の起こらない、変化のない教会にたいして・・・・。
人は自分の罪を認めることをしない。
罪を認めなければ変化もやっては来ない。
きわめてそのスピードは鈍い。
ただ教会は、
イエス・キリストの十字架の出来事という神としての証しに基づいて、
イエス・キリストの十字架の出来事を神の啓示の証しとして、
与えられ、そして受け入れ、
ただ承認することだけしかできないのです。
イエス・キリストの十字架の出来事という、
死と葬りと復活という、
神の啓示についての証しを通さずに、
福音は私たちのところに来ることはないのです。
教会は、神の啓示の中に存在の基礎を持っていることを忘れてはならない。
「あなたがたがこんなにも早く、
あなたがたをキリストの恵みの内にお招きになったかたから離れて、
違った福音に落ちていくことが、
わたしには不思議でならない。」
(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・1章6節・口語訳聖書)
教会が神の啓示のその中に存在の基礎を持っているのなら、
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを、
くりかえしくりかえし、あきることなく、
つねに新鮮に伝え語ることができるのが教会なのです。
北白川 スー
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Wrote up on July 03, 2009.