教会って、暗いからきらい
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重く沈んだ空気に包まれた教会・・・。
疲れた顔をしている人が多く、明るい顔の人は少ない・・・。
「教会って、暗いからきらい!!。」
そのように言われる方は少なくはない。
対照的なんですが、
深くキリストへの信仰を持っている者なら、
そのような教会の状況なら、決して満足を覚えないし、憂慮しかつ危機感すら持っているはずです。
赦され、救われ、喜びをもって・・・。
主なる神を礼拝しにやってきたのに、満たされるものがなく。
それどころか、欲求不安やストレスさえ覚えるのです。
これでいいのだろうかと。
そのような教会では、十字架は輝いているのでしょうか。
イエス・キリストの十字架の出来事は語られているのでしょうか。
ひとりの人がすべての人のために十字架に死んだという出来事が・・・。
感謝と歌声と、笑い声に満ちているのでしょうか。
神の愛を感じることの希薄な日本でこそ、
教会こそ、声を大きくして神を喜ばなくてはと思うのですが。
日本はとくに、教会に、人間関係の問題を持ち込んでくる方が多く、
自分は、大切にされていないのではないかと。
孤独感にさいなまれ、苦痛を覚え、心を責めている人の多いこと。
家庭や、地域や、職場や、学園で、
人とのつながりに苦しみ悩み、また怒っている人が多いのです。
まわりの人との関係に苦しんでいる人は、
教会にあっても暗く沈んでいるものです。
自分の道を歩もうとする人は、すなわち、それは神の道ではないと言えます。
神と共に歩む道ではない。
どうだろう、暗く沈んでいる人は、自分の道ばかりを、
自分の道ばかり求めているのではないだろうか。
教会には、そのような人の道などはない。
そこにあるのは、神と共に歩む道だけなのだ。
むかし、人は神と共に歩む者として造られた。
しかしアダムとエバは、神との道ではなく、自分たちだけの道を歩もうと決めた。
それ以来、人間は地上をさまよい歩かなければならなくなった。
苦悩を重ねて・・・・。
父なる神は、道をふみ外した人間をあわれみ、愛し、
ひとり子キリスト・イエスを、人として地上につかわし、
十字架の上で神の怒りの刃をイエスに下された。
その命をもって、赦しを与え、救いを与えられた。
ただし御子キリスト・イエスを信じる信仰によってのみである。
その信仰によってこそ、
神ご自身とわたしたちとのつながりが、
また、となり人との関係が、自分自身が、
もと通りになるのです。
神とのつながりがこわれている人は、
人とのつながりもこわれているのです。
愛されていないという感覚こそ、
何よりも恐ろしい貧困なのではないでしょうか。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16~17節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on February 10, 2018.