クリスチャンは、交わり・まじわりと言うけれど



クリスチャンは、交わり・まじわりだと言うけれど、
クリスチャンは、なぜ、交わり・まじわりだと言うのでしょうか。
たしかに現代ほど人と人との交流が疎遠になっている時代はない、
隣の人が何をしているのか、名前さえも知らない時代なのだから。

自分の子をしかる親はいても、隣家のいたずら子をしかる人はまれになってしまった。
だからクリスチャンは、人と人とが語り合い交流することが大切なのだと言っているのでしょうか。
何か、楽しい趣味の集まりのようなことを言っているのでしょうか。
キリスト教的に言って、癒しや救いは人と人との交流から来るものなのでしょうか。
互いに仕えあうことによって癒され救われるのでしょうか。
確かに聖書には次のような記述があります。

「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」
(旧約聖書・詩篇・133偏1節・口語訳聖書)

兄弟たちがひとつになって座り語り合い、
また共に生きていることは、なんという幸せ、なんという楽しさなのだろう・・・・。

聖書が語っているのは、
クリスチャンにとって、他のクリスチャンとの交流の中で共に生きることの大切さを、
キリスト者同士の交流、語りあいを、
つまり、聖書の言葉の下にある共に生きる暮らしについて教えているのです。
聖書の言葉とはなんでしょうか、
パウロがローマの信徒にあてた手紙の中で語っているように、

「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」
(新約聖書・ローマ人へのパウロの手紙・10章17節・口語訳聖書)

クリスチャンの集まりというものは、
キリストの言葉であるところの聖書の言葉を聞くこと、
すなわち、十字架の上で死なれたイエス・キリストにおいて起こった事柄を聞くということなのです。

人間同士の語り合いや他の人との交流によって癒されるというのなら、
イエスの死はむなしいものになりませんか、
イエスは、なぜ十字架にかかって死なれたのでしょうか。

キリストが死なれ、葬られ、そして復活され、
そしてキリストが再びこの世界に来られる時、つまり世界は終末へと向かっているわけですが、
私たちは、キリストの死と、世界の終わりの日との間、中間に私たちは生きているわけですが、
そのキリストが再び来られる時に起きること、
キリストによってあがなわれた民が集められるという聖書の預言の成就ということにおいて、

そのときに起きることの先取りという形において、
この世界において、目に見える形で集まることが許されているという形で、
神の言葉と、洗礼や、パンや葡萄酒をいただくという儀式的な事柄のために、
ただの儀式ではなく内容と意味があるわけですが、
イエス・キリストの復活の日にあずかるという、
ただイエス・キリストにおいてのみ結びあわされた”交わり ”が、本当の意味でのまじわりなのです。

まじわりとは、すなわち、毎日曜日に行われる教会の礼拝を含めた、
神への礼拝をあらわしているのです。
その礼拝において語られる事柄こそ、すべてのものの基となる事柄、
イエス・キリストにおいて起こった出来事なのです。

神のひとり子イエスは、わたしたちのために人としてこの世界に来られ、
神へのなだめの、和解のささげものとして十字架の上で死なれたのです。
それが、イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事なのです。

神のひとり子イエス・キリストが、すべての人の罪をその身に背負い、
罪人として十字架にかかり、死なれたことによって完成した、
すべての人の罪のあがないという出来事なのです。

その出来事を信じる信仰によって、クリスチャンは互いに結びあわされているのです。
それが信仰による交わり・まじわりと呼ばれるものなのです。
決しておしゃべりのための集まりでも趣味のための集まりでもありません。
イエス・キリストの十字架の出来事の喜びをひとりじめしての、
ただ励ましあうだけの交わりなら、まじわりとは言えないかもしれません。

確かに人間同士の言葉に飢えている現代です。
だからこそ、自分自身の欲求のためではなく、
イエス・キリストと共に生きることの大切さがあるのではないでしょうか。

クリスチャンの交わりとは、
イエス・キリストの十字架の出来事への信仰において、
ひとつであることを歌っているのです。
そうであればこそ、そこにイエスへの喜びと、イエスからの励ましがあるのではありませんか。


北白川 スー

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Wrote up on November 18, 2007.