笑うことを忘れているクリスチャン



日本の教会でよく見かける、誰となく出会った人に何かを訴えてくる情景です。
何を思い悩んでいるのか、何が心配なのか、何が苦しいのか、その表情は暗く沈んだままです。
なんとも元気もなく・・・。

教会は喜びと歌声が絶えないところでもあります。
神に感謝し、イエス・キリストをたたえるところなのです。
イエス・キリストは、賛美を受けるにふさわしい方なのです。
わたしたちはイエスを愛し、イエスに愛されているからです。

しかし、その人は言うでしょう。
自分の問題が解決していないのに、こんなに苦しんでいるのに、
賛美なんて、できるわけないでしょ・・・と。

わたしたちの苦しみとはいったい何でしょうか。
わたしたちから笑いをうばってしまったものはいったい何でしょうか。

あなたが必要だと思っているもの何ですか。
豊かですか、便利さですか、経済ですか。
健康ですか。
自分の立場や、地位や名誉ですか。
彼ですか、彼女ですか。

それが手に入れば幸せになれると思っていますね。
そのように思えば思うほどに、苦しみと混乱と不安が増してくるのではないのですか。

メディアが伝えるニュースでも、
わたしたちの家庭でも、人々は混乱と苦しみの中であがきもがいています。
わたしたちの暮らしはあまりにも忙しく、
夫や妻と、子どもたちと互いに語りあうひと時さえありません。それが現実です。
おのおのが、自分の得たいものを、おのおのに追い求めているからではありませんか。
それは、社会生活に、家庭生活に、人間関係に”愛”が見失われているからではありませんか。

では、キリストの教会がそのような人たちに伝えようとしている事柄はなんでしょうか。

イエス・キリストは、あなたを愛し、あなたを支えるために、
十字架にかかって苦しみのうちに死なれたことです。
それは、わたしたちへの愛があらわれるためなのです。

「・・・その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」
(新約聖書・へブル人への手紙・2章9節・新改訳聖書)

わたしたちは愛されていることを忘れないでください。
わたしたちは必要とされていることを忘れないでください。

キリストへの信仰とは、キリストへの信頼です。
キリストを信じ、これからの未来をキリストにゆだねることなのです。
キリストに未来をゆだねることによって、
もう過去に、昨日に思い悩む必要はないのです。
新しい道が用意され、明日は開けているのです。
キリストが十字架の上でなされたわざによって約束されているのです。

2000年前に、十字架の上で処刑され、葬られ、そして三日目によみがえられた出来事は、
ののしられ、はずかしめられ、苦しみ、
罪人としてすべての問題を背負って十字架にかかって死なれたイエスの姿は、
それは、わたしたち自身の姿でもあるのです。
すでにわたしたちの問題は葬り去られたのです。
わたしたちの進むべき道は、すなわち復活の道はキリストによって、すでに用意されているのです。
ですから、たたえられるべきお方なのです。
ただ信頼して従っていくだけなのです。信頼して。
さあ、イエスの前に進みにい出ましょう。

しかし、自分の過去にこだわり、自分の力でそれを得ようとするなら、
心配や苦しみは無くならないでしょう。依然として。

このように言えるかも知れません。
わたしたちの身勝手な望みが破れたとき、キリストの約束は成就すると。

「ほふられた小羊こそは、
力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。」

(新約聖書・ヨハネの黙示録・5章12節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on December 07, 2006.