権威ある救いの言葉として



日本のキリスト教の教会が、
教会に足を踏み入れる人たちの期待に答えることのできる所だと、
当の本人たちが理解しているなら。
社会生活や暮らしの中で出会ってしまった困難や苦しみを、
または不足に答えることが教会の使命だと理解しているならば。

聖書的にいうならば、
主イエス・キリストの御名を呼び求めることのない教会を期待しているならば。

教会が、神の教会がである、
教会のまわりの人たちに伝えなければならない内容が伝わっていないか、
もしくは、教会自身が伝えなければならない事柄を
伝えるための努力を怠ってきた可能性を考えなければならないでしょう。

教会が、教会のまわりの人たちの期待に答えないのではなく、
本来、語られなければならない内容の事柄こそが、
教会のまわりの人たちの期待に答えることになる内容だということなのです。

本来語られなければならない事柄が語られていないから、
または、語られていてもそれが聞こえてこないから、
教会のまわりの人たちは、
自分たち自身のスケール・尺度、物差しで教会というもののイメージを作り上げてしまうのです。

教会が本来的に語らなければならないものは、
教会が、神の教会が語らなければならないものこそ”神の啓示 ”そのものなのです。

すなわち、私たち罪人のところに、人として来られた、
神の言葉であるイエス・キリストを、語り伝えなければならないのです。
キリストと十字架の出来事に焦点を合わせて語り伝えなければならないのです。
聖書・バイブルの中に生きているキリストの言葉を聞き、
それを受け入れ、信仰によって認識することこそ、
人間にたいする神の啓示なのです。

個人的な必要に答えることが、個人的な不足を満たすことが、
社会的な要求に答えることが、決して教会の使命ではありませんし福音ではありません。

わたしたちにできることは、
ただキリストとキリストの十字架の死によるあがないのわざという出来事を聞き、
受け入れ、認識し、承認することだけなのです。

なぜこの世界に教会が建っているのでしょうか、
私たち人間の意図と計画によって建っているのでしょうか、
いいえ、そうではなく、
私たちに、神の啓示が、権威をもって与えられるためだからです。

「(キリストの)十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。」
「事実、この世界が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。
それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、
信じる者を救おうと定められたのです。」

(新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第1の手紙・1章18節と21節・新改訳聖書)

教会のメッセージが愚かしく聞こえる人は、
罪の赦しについて、救いについて、
それが身に迫る言葉として、
心を包みこむものとして、
自分自身のこととして、
希望ある言葉として聞こえてこないだけなのです。


北白川 スー

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Wrote up on June 22, 2008.