人生こそ信仰生活
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クリスチャン自身が、礼拝に通っている教会にたいして抱いているイメージですら、
”決定的なこと”が語られていないためか、様々ではないだろうか。
教会を少人数なマスとしてとらえてしまえば、
実際の家族よりも接しやすく過ごしやすい家族であったり、
それこそが神の家族だと感じたり・・・。
キリストのひとつの器官として、
教会の活動において自分が担うべき役割としてであったり。
しかし、そこにあるのは、人間的な共同体としてのイメージでしかないだろう。
”キリストの御霊によって新生した”、
キリストの十字架の死による贖いの業によって、
そのあがないの出来事によってあがなわれた、
解き放たれてよみがえらされたものではなく・・・、
新たに生まれ変わった自分というものからほど遠い、
新たな人間的なくびきを負わされたものが教会生活なら・・・。
初めて教会に行ったときの新鮮さというものは、時間とともに薄れてくるだろう。
それどころか、新たな人間関係から起きてくるつまずきさえ、疲れさえ覚えるかもしれない。
教会で語られる、決定的なメッセージとはいったい何であろうか。
それは、神は私たちに絶えることのない恵みを与えてくださっているということではないのか。
つまり、イエス・キリストの十字架による死という、あがないのわざという出来事ではないのか。
決して互いに教えあおうとする単なる宗教的な人間の集まりが教会ではない。
イエス・キリストの十字架の死という、
信じ難い神の恵みに応える人間の集まりこそが教会ではないのか。
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架によるあがないの出来事を・・・、
神との和解の出来事を・・・・、
聞き、理解し、自分のものにすることこそ、
そして、それが自分の人生のすべてのものの土台になるものとして、
自分の人生を支えるものとして、人生そのものに位置づけられるなら・・・。
その土台の上に良き人生が築き上げられるはずなのだ・・・。
だから、自分がどこへ行こうとしているかも分かりもし、
どうやって行けばいいのかも分かるのだから。
それが、”自分の主とした”イエス・キリストに、
”聞き従う信仰”ではないのか、
イエスへの信頼ではないのか。
だから、おどろくばかりの恵みではないのか。
決して信仰生活イコール教会生活ではない。
クリスチャンとしての人生こそ信仰生活そのものなのだから。
「あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
あなたの義を光のように明らかにし、
あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。」
(旧約聖書・詩篇・37編5~6節・口語訳聖書)
神の究極的な選択と決断ではなく、
自分の理想や価値観を基準にものごとをとらえてしまえば、
そこにあるのは、混乱やあせりや疲れだけかもしれない。
なおさら小さな集まりの中でそれらをとらえようとするなら、
そこに待っているものを、容易に思い描くことができるのではないだろうか。
そうではなく、
この世界を造られた神への深遠な問いかけこそ、すべての基いとなるはずである。
北白川 スー
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Wrote up on September 24, 2008.