クリスチャンの教会生活



キリスト教に出会って、少なくともイエス・キリストに出会って、
魂の救いを経験し、喜びと、いのちあふれる経験をしたものの、
クリスチャンとして教会生活を送りだしたとたんに、
奉仕だとか、献金だとか、信徒同士の交流といったもの、
婦人会だとか、壮年会だとか、青年会といった、
初めて経験する人間関係に初めのころは目新しく興味しんしん、
初めのころは楽しかったけれど、
信徒同士の付き合いに、いつしか振り回され、疲れ果て、つまずき、
教会の、決められた枠組みの中に組み入れられることが息苦しくなり、
それがいつしか苦痛となって、
結局のところ、教会から足が遠のいてしまった。

このケースはまれな例かもしれませんが、
どこか、聖書・バイブルが語っている信仰というものから外れているように見えなくもありません。
聖書は、”自分の力に頼って生きるのではなく、
聖霊の力に頼って生きる”ことこそ信仰の本質だと語っているはずなのです。
信仰とはスピリチュアルなもの、神との出会いなのです。

「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。
あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。」

(新約聖書・使徒の働き・17章28節・新改訳聖書)

「また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。
神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」

(新約聖書・使徒の働き・17章25節・新改訳聖書)

教会生活に、また信仰生活に疲れ果ててしまった人たちは、
”福音の本質 ”というものに届かないまま、
現実の社会で生きることと信仰との板挟みになってしまったのでしょう。

奉仕することが、献金することが、信徒同士が交流することが信仰ではありません。
信仰とは、キリストの福音を聞き、
すなわち、イエス・キリストの十字架の死による、あがないのわざという出来事を聞き、
またその内容を、意味を知り、その出来事を信じるという・・・。

そこに創造主なる神によって造られた人間としての喜びを見いだすのです。
神の義を神の正しさを見出すのです。
そのようにしてこそキリストへの信仰を持つようになるはずなのです。

そうでなくして、どうして神をあがめることなどできるでしょうか。
神を賛美することができるでしょうか。

クリスチャンは、クリスチャンとしての義務を果たすために教会へ行くのではありません。
クリスチャンが教会で行われる日曜日ごとの礼拝に行くのは、
礼拝において、神を知り、生きる喜びと、いのちあふれる経験をするためなのです。
つねに同じ言葉で、くりかえしくりかえし語られるイエス・キリストの十字架の出来事であっても、
聞く者の心は、聞くことによって、その内面の変化によって、聞くごとに新しくされていくのです。
日曜日こどに新しい発見があるのです。
日曜日ごとに、いのちは新しくされるのです。
そうであればこそ、そこに奉仕の心が生まれ、
自分の持てる資質や能力を働かせることができるという奉仕への心が生まれてくるのです。
決して強いられて行うのではなく、強いられて枠組みに組み込まれるのではなく、
自発的に、感謝と喜びと愛とをもって、人を世話し、人を助け、人に仕えることができるのです。
そうであってこそ、献金であっても、自発的に感謝の気持ちでささげられるのです。

この日本では、一般の人には、
まだまだキリスト教にたいするイメージにかたよったものがあります。
何か正しい道徳観??を持った、清く正しく、質素な・・・・とか、
生活にゆとりがあり、世間から少し離れた、
苦労を知らない生活を送っている人たちの群れのように見ているのかもしれません・・。

なぜ、キリスト教に、生き生きとした、いのちにあふれるイメージを重ねないのでしょうか。
希望を捨てず、高いビジョンを掲げ、人生で得たいものを、
わくわくして待つことのできるものを、大胆に追い求める人生を送るために、
神への絶大なる信頼を傾ける人生を送ってはいけないのでしょうか。
この世界を造られた神と、
そのひとり子イエス・キリストに信頼をよせる人生を送ってはいけないのでしょうか。

「それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。
成長させてくださる神なのです。」

(新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第1の手紙・3章7節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on November 15, 2007.