教会生活は疲れる



教会生活に疲れを訴えるクリスチャンの多さと言えば・・・、
クリスチャン人口が、1パーセント未満と言われるこの日本のキリスト教界・・・、
その少なさの中で特徴的なことなのです。

キリスト教の教会でおこなわれる日曜日ごとの礼拝・・・。
講壇から語られる神のメッセージを聞くことによって、
主イエスに思いをはせ、
日々の暮らしの中で痛められた心の傷をいやし、 日々の疲れをいやし、
生きて行くための新たな活力を生み出すはずの教会で・・・。

ある信徒の言によれば、
他の日にくらべて、日曜日がいちばん忙しく疲れる日なのだそうだ・・・。
礼拝が済めば待っているのは、決まってお茶の時間となり、
信徒同士の交流の時間となり、そして待っているのが教会奉仕なのです。
日々の人間関係に疲れているにもかかわらず・・・、
礼拝が済めば早々に待っているのは、婦人会や青年会・・・、
そしてイベントの打ち合わせなど・・・、
心を落ち着かせる時間もないほどスケジュールは詰まっている・・・。

日本の教会は、その多くがて少人数です。
少人数ならではでしょうか、教会の仕事を、ひとりで何役もこなさなくてはなりません。
共同体での組織活動に伴うものが人間関係です。
疲れるのもあたりまえかもしれません。

多くが、少人数の教会です。
こじんまりと小さく、少人数だから人間関係も濃密にならざるをえません。

人間には個性があります。
牧師や神父にしても人間です。
そりが合う合わないもあることでしょう。
通っている教会に、あれやこれやと不満も生まれることでしょう。
”赦し”と”救い”と”いやし”のはずの日曜日、それなのに・・・、
なぜにまで気持ちは晴れ晴れとしないのでしょうか・・・・。
人生はじめて教会を訪れたときの新鮮さはどこへ行ったのでしょうか。
それとも、神の基準を守って生きることに疲れたのでしょうか。
神の基準に達することが出来なくて疲れたのでしょうか。

新約聖書に納められている「使徒の働き」とも「使徒行伝」とも「使徒言行録」とも言われる書簡は、
ユダヤ人ではなく、ローマ帝国の異邦人の間に次々と広まって行ったキリスト教信仰を、
共同体として存在するようになったキリスト者たちを生き生きと描いているものです。

その中で、キリストの使徒たちと、
ユダヤ教からキリスト教へと改宗した人たちとの論争が描かれています。
モーセの慣習に従って「割礼」を受けなければ救われないと教えるユダヤ人キリスト者と、
イエス・キリストを信じた者は、だれでも救われる・・・と、
割礼を受けていない異邦人にも、聖霊はくだって救われるという・・、
ただイエスの恵みによって救われることを信じる人たちとの論争です。

主なる神は明確に言っています。
「ペテロは言った、「主よ、それはできません。
わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。
すると、声が二度目にかかってきた、
「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。

(新約聖書・使徒行伝・10章14~15節・口語訳聖書)

神は明確に言われたのです。
信じた者は、だれでも救われると・・・・。
割礼を受けないことは、聖別されていないことをあらわしているのではありません。

では、いったい何を意味しているのでしょうか。
教会奉仕や教会の活動という行為に加わることが、
キリスト教信仰にとって必要不可欠なものではありません。
教会生活を強いることは律法的なことです。
教会活動に強いて参加しなければならないとは考えないでください。

大切なことは、ただイエスを、
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死によるあがないのわざという出来事を
信じることによって救われるということなのです。

「では、なんと言っているか。
『言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある』。
この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、
自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない』と言っている。」

(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章8~11節・口語訳聖書)

言葉とは、みことばと呼ばれる神の言葉、すなわち聖書の言葉です。

教会生活が疲れる原因はいったい何でしょうか。
私たちは、あまりにも、そうしなければならないと考えがちなのです。
教会生活でもそうです。
信仰とは、イエス・キリストとの関係であることを忘れないでください。
信仰とは、決して教会生活のことではありません。
みことばを実行するとは、ただ奉仕を意味しているのではありません。
自分の主としてのイエス・キリストへの信頼なのですから。
なぜ日本の教会は、祈りと御言葉の教会にならないのでしょうか・・・。

「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、
律法の終わりとなられたのである。」

(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章4節・口語訳聖書)

キリストが律法を終わらせられたので、
信じる人はみな、正しい者とされるのです。
ただ神の恵みによるのです。


北白川 スー

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Wrote up on March 23, 2008.