教会の人間関係につまずいて去って行かれた方の多さを



キリストへの信仰というものについて考え、またキリストの教会について考え、
ネットワークを用いて広く情報を発信し、また受け取っていますと、

教会の人間関係に何らかのつまずきを覚えて、
教会を去って行かれた方の多いことにおどろかされます。
信頼できる統計調査によれば、
日本には6パーセントものクリスチャンが存在するという数字か示されました。

教会の毎日曜日に行われる礼拝に集まってくる信徒の数と言えば、
人口比にして1パーセントにも満たないと言われています。
その差は何を意味しているのでしょうか。

キリスト・イエスを信じ、信仰を持ちながらも、
何らかの理由で教会を去って行かなければならなかった方の多さをあらわしていると考えられるのです。

教会とは何でしょうか、
聖書的に言えば、罪人の共同体に他ありません。
教会は、神によって設立された、神の言葉によって生きる、罪深い人間たちの共同体なのです。

罪人ゆえに、弱くて愚かで不安定な人間たち。
あくまで人間的なものには頼らない、
神の言葉に信頼を置いて生きる人たちの共同体なのです。

そこでは、罪人たちが、キリストの福音に出会い、キリストの救いにあずかったことに感謝し、
イエス・キリストの十字架の恵みに、喜びをもって応答するところなのです。

決して人間の管理と処理とにゆだねられているものではないのです。
ひとたび人間的なものが頭をもたげてくるならば、
そこに待っているものは、人間的なゆえの、混乱と不安なのです。

何かにつまずき教会を去って行かなければならなかった人の多くは、
人間的な混乱と不安に嫌気を感じて、教会を去って行かれたことでしょう。

決してキリストの福音に絶望して去って行かれたのではありません。
人間ですから、色々とさまざまに考え方ややり方の違いはあります、
しかし、教会の頭である神はただひとつです。
主イエス・キリストです。

「主は1つ、信仰は1つ、バプテスマは1つです。
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、
すべてのものの父なる神は1つです。」

(新約聖書・エペソの信徒への手紙・4章5~6節・新改訳聖書)

教会とは、いったいどのようなところなのでしょうか。
教会こそ、神の恵みが、イエス・キリストの人格において示され、
それを私たちが受け取るところなのです。

神が人間のところに来られて、人となられたという出来事において、
神の人間にたいする選択と決断と態度によって、教会は生まれたのです。
決して人間的な理由によって教会ができたのではありません。

人間の言葉に飢えて、人間の言葉を求めて教会に来られる方もおられることでしょう。
また、社会の人間関係にうまく適応できず、教会にそれを求めて来られた方もおられることでしょう。

しかし、教会においてこそ、
神の選択と決断と態度においてだけ、ご自身を私たちに知らしめられたのです。
その選択と決断と態度こそ、
イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
イエス・キリストの十字架の上での死と、葬りと、三日目に復活されたという出来事なのです。
その出来事をもって、
人間が聞くということだけによって、
神が人間に語られていることを聞くことによって、
基礎づけられ、支えられているのです。
それ以外のなにものでもありません。

仮にも教会でイエス・キリストの十字架の出来事が語られないのなら、
そこにあるものは、混乱と不安に満ちた人間関係と人間的な言葉だけなのです。

教会においてこそ、神の恵みは、イエス・キリストの人格において拝せらるのです。
それがすべてであり、何があってもそこへ行きつくのです。
福音が語られず聞かれないところでは、信仰は生まれるはずがないのです。
反論があるかもしれません。
福音がなくても信仰は持てると・・・。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」
(新約聖書・ヘブル人への手紙・12章2節・新改訳聖書)

教会は、決して人間的な人間関係によって成り立っているのではありません。
教会のかしらは、イエス・キリストその方だけなのですから。

「御子はそのからだである教会のかしらです。」
(新約聖書・コロサイの信徒への手紙・1章18節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on June 05, 2007.