社会的弱者の救済に



社会的弱者の救済に力点を、持てるわずかなエネルギーを注いできたため、
キリスト教の信仰において肝心かなめであるところの、
欠くことのできない大切なものとして、
キリスト教の信仰そのものと言っていいものとしての、
神の義の説き明かしが、

「福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章17節・新共同訳聖書)

すなわち、福音の説き明かしが、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事の
説き明かしがおろそかになってしまったため、
全人口に対するクリスチャン人口の比率が、
いまだに1パーセント未満と言う結果を作り出しているのではないだろうかと・・・・・。

現実に、日本の社会一般が持っている、キリスト教の教会にたいする共通の見方として、
社会の病理の中で傷ついてしまった人たちの受け皿として、
さらには、心の病気の人たちや、
生活の中でさまざまな問題を抱えてしまった人たちの
必要に答えるところとしての役目を、担うところだと・・・・・。

だから、
キリストの福音は、決して狭いものではなく、広がりを持ったものであるにもかかわらず、
教会とは ” 狭い ” ところであるかのような認識が定着してしまったのではないだろうかと・・・・・。
私には必要としないところだと・・・・・・。

福音とは、まさしく神の義の啓示なのです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという。
神のひとり子イエス・キリストの十字架の出来事なのです。

人間にたいして、決して個人的な義を与える内容のものではありません。
教会は、この世界を造られた、私たち人間をも造られた神の正しさを説き明かすところなのです。

「 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、
御子によって、この世が救われるためである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16~17節・口語訳聖書)

教会が、本質的なことを忘れて、
ごく個人的な関心事や日々の暮らしの必要に答えることに熱中するあまり・・・・、
滅びに向かいつつある大多数の人たちの魂について責任を果たすことを忘れてしまったなら・・・、
イエス・キリストにたいする生きた信仰など、生まれるはずがない。


北白川 スー

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Wrote up on May 03, 2009.