この世界を創造された神でない可能性を秘めた神を



この世界を創造され人間をも造られた神でない可能性を秘めた神を、
キリスト教の教会が、神ではない可能性を持った神を、
信仰者がイメージする神を、
そのような神である可能性を秘めた神を礼拝する礼拝者として、
どのように信仰すればいいのか、
信仰のハウツウについてあまりにもかたより力説するならば・・・・・、
信仰者が思い描く、神ならぬ神を礼拝する可能性を秘めている・・・神を。

キリストなるメシアとしてのイエスを通して人間に伝えられようとしている、
この世界を造られ人間をも創造された神のメッセージに耳を傾ける機会を失っているのではないか。

イエス・キリストの30年にわたる生涯を通じて、
いや、その生涯こそ神の啓示そのものなのです。
イエス・キリストは、私たちがいまだかつて知らなかった世界を、
私たち人間に明らかにされたのです。

それは、昔から預言者によって語られてきたものが、
現代の私たち人間にもはっきりと聞くことができるものとして、
まったく新しい神の真理を・・・・、
いまだかつて聞いたことのない、
おどろきと喜びにあふれた、
この世界を創造され、人間をも創造された神の真理を・・・。

その真理とは、
イエス・キリストが、” 私たちの主 ” として、
私たち人間を支配されている事実を忘れてしまった私たち人間に・・・。
私たち人間のものの考え方ややり方に決定的に影響を与える存在として・・・。
私たち人間の主であるという事実こそ、
もっとも理解し難いものとして、
私たち人間の前に立ちはだかるところに、
” 私たちの本性 ”があらわれているのです。

イエス・キリストが、” 私たちの主 ” として、
この世界に、そして私たちの生の中に現われたことによって、
人間が、自分こそ正しい存在なのだと主張しようとする試みは、
自分が有利な立場に立とうとする試みは、
もろくも砕かれてしまうのです。

それどころか、イエス・キリストを仰ぎ見るために、
人生のハンドルを大きく切らなければならなくなり、
人生の歩みをいったん止めなければならないほどの大きな、
感動とおどろきとを体験するのです。

自分の人生にイエスを受け入れなければ、
自分の人生の未来は開かれたものにはならないのだと痛感させられるのです。
それは、イエス・キリストが再びこの世界に来られることを待ち望む者となることを意味します。

どのようにクリスチャンすればいいのかでもなく、
どのように信仰生活を送ればいいのかでもなく。
自分の生き方を押し通すことが問題ではなく、

イエス・キリストの十字架の出来事を聞き、また知り・・・、
感動をもって、十字架の前に立たなければならなくなったとき、
そのときこそ、神の真実の愛に出会うことになるのです。

ひとりの人がすべての人のために死んだという・・・。
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事に出会い、
心を揺り動かされてこそ、
その出来事を認めることにより、
その出来事に応答することによって・・・・。
人間の人生は大きく方向を変えることになるのです。

「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、
自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9~10節・口語訳聖書)

私たちは人間は、自分のやり方、考え方、生き方に、
こだわりを持っています。
なりたい自分になりたいと・・・・。
しかし、イエス・キリストに出会うことによって、
イエス・キリストの十字架の出来事に出会うことによって、
私たちは、人間として、その存在の意味を問われることになるのです。

神の中に生きるのか、
それとも、神なしで生きるのかを・・・・。


北白川 スー

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Wrote up on October 01, 2010.