日々の暮らしと、教会の礼拝との関係



ちょっと見たところ、関係なさそうに思えるのですが、
ところがたいへん密接な関係にあるのです。

イエスを受け入れ洗礼まで受けたクリスチャンが、社会の荒波に持て遊ばれ、
また教会の活動にも人間関係にもついていけず、
教会につながれることができずに教会から離れていく姿は、
いまだキリストを知らない、福音に接したことのない未信者・ノンクリスチャンの姿に
重ね合わせることのできる内容を含んでいるのではないかと思わされるのです。

目に見える世界を基準として人生を見つめている人にとっては、
日本のほとんどの人たちはそのように人生を考えているはずです。
大切なものは徳目であり、ボランティアや慈善や孝行と言った、
広い心をもって人に接し人をを愛するという行為を通して、
自分の願いや望みを、形あるものにすることを期待しているはずです。

しかし、聖書・バイブルは、人類の始祖アダムが父なる神に背いてからの人間の置かれた状況は、
人は自分が本来持っている力や知恵や行いによって
救いを自分のものにすることはできないと明確に語っているのです。

目に見える世界を基準としている人にとっては、
目に見える世界に、別の世界からの働きかけが、
広い大きな視野から、自分たちを覆っているものから、
何かの働きかけが働いていることが理解できないでいるのです。

キリストの教会が語ろうとしているもの、それは、
父なる神が、私たちの日常の不安や心配や混乱や混沌という暗闇に、
時として望む方向でない場合であっても介入され、
そこに光りと希望と命を与えようとされることなのです。

それが”福音・ゴスペル ”といわれるものです。
福音というもの、それは、「キリスト・イエス」その方ご自身が
究極的な父なる神からのわたしたちへの贈り物・恵みであるということなのです。

それは、父なる神の意志にもとづいて、
それは約束の言葉として・旧約聖書に預言として・明らかにされていることがらなのです。
その神の言葉が、”肉 ”となられたということなのです。
肉とは、言葉や肌の色、宗教までも問わない”わたしたち一人一人 ”のようにということであり、
神の言葉が肉となられたということは、神ご自身が神であることやめず、
神のひとり子として、人間としてこの地上に来られたことを意味しています。

わたしたちと同じ人間として、ご自身の神的な存在につけ加えて、
離れることができないように、ご自身とひとつのものとされたのです。
わたしたちと同じという意味は、
父なる神に背くことによって、
罪深さという本性を背負ってしまったわたしたちの姿と同じになられたということ、
このわたしたちの人間的存在のことなのです。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、
神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」

(新約聖書・ピリピ人への手紙・2章6〜8節・新改訳聖書)

わたしたちは、行いによって何かを達成しようと、
形あるものを残すことによって満足を得ようとします。
しかし、聖書が語る内容は、行いではなく信仰によって、
イエス・キリストを信頼することによって、
神の目からみて正しい者とされると語っているのです。

イエス・キリストは、その十字架の上での死によって、
”いけにえ”としてその命をささげられたのです。
それは、わたしたちの罪過にたいする”あがない ”の代価として。
そして、父なる神との和解の代償・埋め合わせとしてその命をささげられたのです。

ですから、そのイエス・キリストの十字架の出来事を受け入れた者には、
父なる神との和解が与えられ、人間の犯した過ちを問われることがないのです。
無条件で、ゆるされたのです。
人間は常に過ちを犯すものです。
しかし、神はすべてを受け入れてくださり、ゆるしてくださるのです。
ですから父なる神は、キリストを高くあげて、すべての名に勝る名をお与えになったのです。
わたしたちの出来ること、しなければならないことは、
それは、進み出て、ひざをかがめ、みずからの口によって、
「イエス・キリストは主です。」と告白し、父なる神をほめたたえることなのです。
それが、もっとも大切なことであり、毎日曜日に行われている教会での礼拝の姿なのです。

職場や家庭で疲れはて、癒されたいと思って教会に来たのに、
なおも疲れが増すとしたら、それはおかしな話しだと思いませんか。
教会の奉仕やボランティアが教会の主たるものではありません、
それはあくまで付随的なものなのです。
教会は、何かをしなければならない場所ではなく、
礼拝とは、神をたたえ、あがめ、神に聞くことなのです。
教会は、”祈りの家 ”と呼ばれます。
心を落ち着かせて祈り、そして、癒しと和解と解放の場なのです。
キリスト・イエスは、賛美されるのにふさわしい方であることを忘れないでください。


北白川 スー

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Wrote up on December 16, 2006.