イエス・キリストへの信仰を持つとき



最近よく教会に顔を見せるようになった、ノンクリスチャンの男性の話しです。
その男性の奥さんが、困ったように話しをしていた。
奥さんはクリスチャンです。
この男性は、すでにイエス・キリストを信じているという。
しかし、教会形成がどうだの、教会のあり方とか、信仰の持ち方とか、
信仰とは、どうあるべきかというような話しばかりを教会で小耳にするものだから、
聞かされるほうとしては、
キリストを信じてはいるのだけど、自分は大丈夫だろうかと不安になるのだそうです。

「・・・みなさんは、信仰に熱心でいいですね。
わたしなど、悔い改めもしないで大丈夫でしょうか・・・。」

旦那さんのことを、クリスチャンの奥さんから話しを聞いていて、
これは大変なことになったと思いました。
キリストはすでに彼を取り扱われている。
しかし、教会があまりにも教会の姿とか信仰というものを型にはめたように、
こだわっているかのように、一般化し定型化させてしまっているものだから。
教会の中にいれば、そうとは思わなくても、外から見ればそのように映るものなのです。
それらから外れるものは信仰ではないかのような印象を与えてしまったようだ。

教会というところは、実にいろいろな集会や活動をやっている、
だから、イエスを信じたからといって、
それらの集会や奉仕と呼ばれる活動に、何もしないのもいけないのでないかと思ったりするのだ。

信仰というものは、人それぞれである。
キリストなる神は、ひとりひとりをふさわしい時に、
ふさわしい形で取り扱われるものなのだ。
それぞれに異なった扱いを受ける、
決して特殊なものでもなく、一定の型にはまるものではないはずなのだ。

だから、教会で見かけるものや、
教会で聞く話しなどと同様でないものは、受け入れられないのではないかと、
だんなさんは不安になっているようだ。
彼はイエスを信じている、礼拝にも出る、祈りもする、聖書を読みもする。
どこをとっても立派なクリスチャンなのです。
イエス・キリストは、すでに彼と共におられるのだ、
イエス・キリストは、生きている者の神なのだから。

人々が教会に求めるものは何だろうか、
それは、神への礼拝であり、講壇から語られる生きた神の言葉を聞くことによる魂の充足ではないか、
それがイエスによる平安であり安息なのだから。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。
このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」

(新約聖書・エペソの信徒へのパウロの手紙・2章8節・新共同訳聖書)

真の赦しと救いを知った者とは、つまり、
行いなどによるのでもなく、クリスチャンだからでもなく、
ただ神のあわれみによって救われた者なのだと。


北白川 スー

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Wrote up on October 15, 2007.