なぜ教会活動に奉仕に忙しく明け暮れるのですか



キリストの教会で毎日曜日に行われる礼拝は、
この世界を造られた神をたたえ、あがめ、
そして講壇から語られる神の言葉を聞くということによって。
礼拝は、人間が神に聞くことによって基礎づけられ支えられているのです。
礼拝こそ私たちの霊的な糧なのです。

「霊的な糧」とは、また難しい表現です。
精神的な、心の内面を満たす食べ物とでも言えばいいでしょうか。
渇いた心を潤すものとでも言えばいいでしょうか。

霊的な糧なくして、私たちは、私たちの生活を1日たりとも続けることはできないのです。
”暮らしの糧 ”とでも言えるものなのです。

イエス・キリストは聖書の中で語っています。
「安息日は人間ために設けられたのです。
人間が安息日のために造られたのではありません。
人の子は安息日にも主です。」

(新約聖書・マルコによる福音書・2章27節・新改訳聖書)

リビング・バイブルでは、
「安息日と言えども、天から来たわたしの支配下にあるのだから」と訳されています。
イエスは、安息日の精神を取り戻すために、このように言われたのです。
本来は週の7日目の土曜日にあたる休日でしたが、
教会では徐々に「主の日」日曜日に置き換えられるようになりました。
日曜日は「主の日」として、礼拝の日として守られてたのです。
神のなしてくださったことを覚え、つまり神の恵みを覚え、神を礼拝し感謝を捧げる日なのです。
神の恵みとは、どのような意味を持っているのでしょうか。

そして、人々に休養を与える日でもあります。
しかし、しかし、安息の日であるはずの日曜日に、
なぜ、教会活動に、また奉仕にと忙しく明け暮れるのでしょうか。
魂の安息の日であるはずの日曜日は、
教会では忙しく、多くの時間的拘束と奉仕とを要求する場となっているのが現実なのです。
クリスチャンといえども日常生活は忙しいものです。
だからとて日曜日だけでも信仰に熱心になりたいのでしょうか。
それは信仰生活と日常生活との分離を、二重生活を意味しているのではないでしょうか。
日曜日だけ、礼拝のときだけ、信仰ある者なのですか。
キリスト教というものは、日常から分離されたものなのですか。

イエス・キリストは、この世界に人の子として来られたのではないのですか。
フルタイムにイエス・キリストは生きて働いておられるのではないのですか。

パウロはコリント人への手紙で語っています。
「あなたがたは神の宮であって、
神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのですか。」

(新約聖書・コリント人への第1の手紙・3章16節・口語訳聖書)


クリスチャンは、日曜日だけがクリスチャンではないはずです。
1日24時間、フルタイムにクリスチャンであるはずなのです。
そうであればこそ、
日曜日の教会こそ、そこでは神がたたえられ、神の恵みが語られ、
つまり、イエス・キリストの十字架の出来事が、キリストの福音が説かれ解き明かされ、
それを聞いた者は、
その言葉によって支えられ基礎づけられ、
そのようにして魂の安息がやっくるのではないのですか。

もしも、教会で肝心の十字架の出来事が語られず、
十字架の言葉に立った救いの確信へと導く言葉が語られないならば・・・。
そこに待っているものは、
クリスチャンらしく生きなければならないという不安と焦りかもしれません。
ときとしてあこがれなのかもしれません。
それが行為へと走らせるのです。

落ち着きのないところには、魂の平安は来ません。
なおさら神を見いだすこともできないことでしょう。

疲れ果てて教会から家路へと急ぐのか、
それとも、心が満たされ、心が癒されリフレッシュされて、晴れ晴れと家族のもとへ帰るのか・・・。
家族は、どちらを歓迎しますか。


北白川 スー

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Wrote up on April 16, 2007.