教会から離れてしまって・・・



どうしてまた、こうも日本では、
教会から離れてしまったクリスチャンたちの多いことと言ったら・・・。
教会を去らなければならなかった詳しい理由は分かりませんが、おどろくべきことです。

教会でキリストの福音が語られていなかったのだろうかとさえ思わされてしまいます。
「福音は救いをもたらす神の力」だと聖書は書いています。
「義人は、正しい者は信仰によって生きる」とも書かれています。
その義とは、神の正しさに答える義であることを忘れないでください。
決して自分中心という義ではありません。
教会からは離れはしないけれど、
がまんにがまんを重ねて信仰を守っておられる方の話しもよく聞きます。
教会では、いったい何が起きているのでしょうか。

人は、それはそれは色々な事情や重荷を負って教会にやってきます。
家庭にも職場にも学園にも地域社会にも、自分の居場所がなくて、
やっとの思いで見つけたのがキリスト教の教会なのかもしれません。
しかし、そのキリストの教会で、イエス・キリストに出会ったのではありませんか。
イエス・キリストに出会い、キリストの福音を聞いたはずです。
つまり、イエス・キリストの十字架による死と、葬りと、復活という出来事を耳に聞き、
また、知りもし、そのような中でキリストへの信仰を与えられたのではありませんか。
いや、キリストを信じるようになったのでしょう。

人が教会にやってくる理由は、本当にさまざまです。
でも、自分の一歩を踏み入れた教会では、
イエス・キリストの十字架の出来事が語られていたのではありませんか・・・。
もしも、教会でイエス・キリストの十字架の出来事を聞かず、
また、語られていなかったのなら、
それは、教会を去って行かれた人の問題ではありません、
教会自身の問題なのです。

福音が説かれ解き明かされていても、
イエス・キリストの十字架の出来事を受け入れることができず、
認められず、信じられないのなら、
教会から去って行かれても、それはやむを得ないことでしょう。

キリストの教会とは、「神」と「人」とを結びつけるところです。
かつて神と人間は結びあわされていましたが、
人間の始祖であるアダムとエバが父なる神に背いたため、
人間は神と切り離されてしまったのです。

しかし、神のひとり子イエス・キリストの十字架の上での死という、
あがないのわざによって、
人間の本来的な罪深さというものにたいする罪科が、
イエスの死という代価によって支払われたのです。
そのようにして、父なる神との和解がなされ、神との関係が回復されたのです。

その出来事を信じることによって、
神との関係・神に背いていたという罪深さはゆるされ、
再び神の子としての身分が与えられるのです。

もしも、教会を去らなければならなかった理由が、
イエス・キリストの十字架の出来事ではなく、その他の理由なら・・・・。

つまり、教会でイエス・キリストの十字架の出来事が語られず、また聞かず、また知らされず、
教会を去った理由が、この世のものと同じ理由であるならば。
人間関係のあつれきとか、好みの違いとか、自分の持っている価値観との違いとか・・・であれば、
キリストの教会も、この世にある組織や施設や仕組みとなんら変わるものではありません。

キリストの教会は、施設でも建物でも、人間的な方法による救いの施設でも装置でもありません。
ただ、イエス・キリストの十字架の出来事という、神の、理解し難いわざによる、
その十字架のわざにおいてのみ、
そして、その出来事にたいする私たちの信仰によってのみ、
神ご自身をわたしたちに現わされ、知らされ、
その神のひとり子であるイエス・キリストの十字架の出来事が、
私たちにたいする神の大きな、例えられないほど深く大きく高い、
神の恵みであるということを知ることによって、
イエス・キリストという人格にたいする礼拝がもたられているのです。

イエスは、今も生きて働いておられるということが、実感として理解できるのです。
それ以外のなにものでもありません。

イエス・キリストの十字架の出来事と自分と、どんな関係にあるの・・・・?。
クリスチャンでない多くの人は、そのような感想を持っておられます。

日本において、教会を去っていかれる人が多いという現象は、
見方を変えれば、
日本人の、根本的な、キリスト教信仰というものの捉らえ方に問題を含んでいるのかもしれません。
日本人は特に、キリスト教の教会にたいして、独特な見方、捕らえ方をしているのかもしれません。

イエス・キリストの十字架の出来事から導き出されるものは、
つまりキリストへの信仰というものは、
生きて行くためのモチベーションを与えるものであり、
生きる意欲をさらに高める、積極的なポジィティブものであるはずなのです。

それが、逆にネガティブな消極的なものとして捕らえられているからなのかもしれません。
ポジィティブなものにたいする抵抗が根強いのが、日本人の特質です。
自分の持っている価値観から、なかなか自由になれないものなのです。
自分の持っている価値観が作り出す、
自分を縛っている縛りから解き離なつものこそ、キリストへの信仰なのです。
ですから、教会では、イエス・キリストの十字架の出来事が、
繰り返し繰り返し語られなければならないのです。

「わたしは福音を恥としない。
それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、
すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。
これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16~17節・口語訳聖書 )


北白川 スー

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Wrote up on September 14, 2007.