教会は、本音で語りあえる?



本音で語りあえるところに、本物の愛がある・・・・。
本音の無いところには、本物の愛は無い・・・。

本当にそうなのだろうか、あえて考えてみよう。
人生を歩んできた道のりで出会った人間関係に、
人と人との関係に、どれだけ裏切られ、また裏切ってきたことだろう。
この世界には、人間関係に苦いつまずきを経験してきた人たちが、どれほどまでに多いことか。
人間関係につまずき、疑いを持っている人たちの多さは、
社会のありさまが示しているのではないだろうか。
お互い信用などできないのだから・・・・。
しかしそれが、私たち人間の本質的な姿としたら・・・・。

仮にキリストの教会が、人が本音で語りあえるところだとするなら、
人間関係につまずいた人は、疑心暗鬼から近寄ることすらできない。
疑いだすと、何もかも疑わしく思われて、信じられなくなるのだから。
教会というところは、
ごく限られた世界、ごく限られた人たちの集まる場所だということを良く知っているからだ、
だから、再び傷つきたくはないし、再び重荷を背負いたくはないのだ。

教会は、開かれた空間だという認識は彼らにはない。
閉ざされた空間だからこそ、
外の世界と、切り離されたところだからこそ、
人間の言葉に飢えた人が、居場所を求めて、
牧師に話しを聞いてもらえる安心から、
安心して足を踏み入れることができると考えるからだ。

「イエスは言われた、
『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

(新約聖書・マタイによる福音書・22章37~40節・口語訳聖書)

・・この二つの戒めを守れば、ほかの戒めをすべて守ったことになる。・・

私たちが、こと人にたいして抱いている印象というものは、
つねに互いの感情のぶつかりあいではないだろうか。
自分は傷つきたくはない、だから、本音で話しができるところが欲しい・・・。
なんとも虫の良すぎる話しではないか。

いや、教会とは、そういうところではない、
私たちが暮らすこの世界は、あまりにもストレスの多い世界であり、
だからこそ、お互いの問題を語り合い、互いに助けあい、
人としてのきずなを深めあうところが必要なのだ、と言われるかもしれない。

『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』と、イエスは言われた。
イエスは、神との関係において、人間関係を築けと私たちにさとされたのではないだろうか。
先ず神ありきなのだ、神との良好な関係があってこそ、
心の深いところに神がおられてこそ、
人との関係をも良いものとなると。

忘れてはならないのは、
私たちが、生きている、また生活を営んでいる世界のことだけを考えているなら、
必ず人間同士のあつれきが起きてくる。

なぜ俗世界のことだけしか頭にないのか。
私たちは、”聖と俗との狭間 ”に生きていることを忘れてはいないだろうか。

人間社会のことだけしか意識がないとしたら・・・・。
なんとも貧しく悲しいものではないか。

俗世界は、決して良い状態にないことは知っているだろう。
そのような俗世界で、
日々の生き方を考える上で、生きていく中で、見いだされるものとして・・・信仰があるとしたら、

自らの望みをかなえることを目的として、信仰をその手段として見る人は、
苦しみ続けなければならないはずだ。
なぜなら、信仰はその手段になりえないからである。

体の渇きを覚えた野の鹿が、谷川の流れを慕うように、
真理・真実を追い求めなければ、ただ残るのはむなしさだけではないか。
”生ける水 ”を慕う鹿のように、
真剣に生きたいという欲求がなければ、真実の声は聞くことすらできない。
求める思いがなければ、聞いていても聞こえないのだ。
谷川の、またはこんこんと湧き出る泉のそばにいたとしても、
生ける水に飢えていなければ、
金銭や、健康や、家族の和や、人間関係や、地位や名誉や、プライドなど、
人間的なことだけが問題になっているあいだは、
真理、真実を求める思いは生まれてはこないものなのだ。

人生は、人間関係や暮らしだけでできているわけではない。
そのことが分かってきたときにはじめて、
人生そのものが問題になるときが必ずやって来る。
そのときに、生ける水を飲みたいと思っても、
そのありかが分からなければ・・・・・。

そのありかこそ、生ける水が流れているところこそ、キリストの教会ではないのか。
決して人生は人間関係だけではない、
人間関係にとどまるならば救いは来ない、
心の深いところに”神 ”がおられる人生こそ、まことの人生なのだ。

だからキリストの教会は、
イエス・キリストの十字架の出来事を、
イエスの死と葬りと復活を宣べ伝える教会は、
そうであるがゆえに、
たとえ、人間同士が本音で語りあえなくても、
さまざまな人たちが出入りできる広がりを持っていなければならないのではないだろうか。

キリストの福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのだから。

「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」
(旧約聖書・詩篇・42編1節・口語訳聖書)

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・7章38節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on August 24, 2007.