魂の納得のないままの信仰・・仮面信仰
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「仮面信仰」とでも言えるもの、
魂の納得のない信仰、自分の気持ちにつながらない信仰というものを考えてみますと・・・。
ネットに公開しているエッセイにたいして寄せられる便りを読ませてもらっても、
教会の礼拝に出席していて見受けられるクリスチャンの姿にも・・・、
言葉に出さなくとも、その表情から読み取れるものがあります。
とまどいに満ちた表情が・・・・。
自分の気持ちの向きと、
講壇からメッセージされる言葉との向きとが、どこか違うような気がするのです。
・・私は欲している、心の平安と安定を、
自分の気持ちが満たされるように、
自分は納得したいのだ。
自分の気持ちに沿った言葉がほしいだけなのだ・・。
正直な気持ちだと思います。
こと宗教というものは、私たちの生き方に深くかかわるものとして存在しています。
この日本では、意識せずとも風習として生活習慣として根付いています。
日々の暮らしと密接に結びついているものなのです。
では、キリスト教については、どうでしょうか。
使徒パウロはローマの信徒への手紙の中で次のように語っています。
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、
取るに足らないとわたしは思います。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・8章18節・新共同訳聖書)
将来わたしたちが目にする、再びキリストが来られるという出来事、
世界の終りの日に、イエス・キリストがもう一度この世界に現われるという、
キリストの再臨に比べれば、
今、わたしたちがもっとも大切なものだと思っているもの、
目に見える望みは望みではないと言っているのです。
現実社会に生きている私たちが、
すっかり見失ってしまったもうひとつの世界が存在していることをあらわしています。
現実社会により所を持っている私たちにとって、それとは別の世界が存在し、
その世界が具体的に私たちの前に現われる望みによって救われていると語ったのです。
なんとも理解しがたいことです。
キリスト教では、キリストの福音というものが、
つまりイエス・キリストの十字架の出来事というものが、
私たちの理性に対抗する形で、正面から向き合った形で、
時として反発する形であらわされています。
だからこそ、教会でメッセージを聞く者にたいして、
ただ聞くことだけを要求し、信仰によって受けとめることを求めるのです。
では、その信仰とはいったいどういうことなのでしょうか。
信仰とは、私たちが持っている理性というものの動きが止められ、
抵抗することすら止めさせられるものなのです。
つまり、理性が沈黙させられると表現すればいいでしょうか。
キリスト教の信仰というものは、現実的なものを具体的な形で実現させるものではありません。
「ご利益信仰」と言われるもの、自分が欲しているものを実現させるための宗教ではないのです。
欲しているものを獲得することではなく、
根本的に価値観の基準が転換させられるものなのです。
だから、とまどいが生まれてくるのです。
キリストの福音、
つまり、ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の出来事というもの、
これを、神が私たちに示された「福音の中に啓示された神の義」と言います。
このイエス・キリストの十字架の出来事に出会って、
その”真理性 ” に出会って、
理性によって判断するというのではなく、
理性を越えたところで、気付かされるとでも表現すればいいと思います。
イエス・キリストの十字架の出来事は、
つまり神の啓示は、私たちの理性にかかわることではなく、
神の領域に属するものだからなのです。
キリストの真理に、気付かされて初めて魂は納得するものであり、
心を入れ替えることであったり、回心と言われるものであったり、
心の向きを変えることが可能となるのです。
信仰というものを、
イエス・キリストの十字架の出来事を、
イエス・キリストの死と葬りと死人の復活という出来事を、
人間の部分で判断しようとする人にとっては理解しがたいことですが、
ですから、仮にもキリストの教会で、
イエス・キリストの十字架の出来事が、
”信仰を求める人たちの魂を納得させないままで ”語られず、
解き明かされないまま、その魂が放置されるのなら、
イエス・キリストの十字架の真理性というものが見過ごされてしまい、
魂の納得とか気付きというものが無いまま、その魂は置き去りにされてしまうのです。
魂の納得のないまま、魂の気付きのないまま、
”信仰 ” と名のつくものが動き始めれば、
それこそ、とまどいや混乱のなにものでもないことでしょう。
福音が聞かれないところには、信仰は生まれるはずがないのです。
キリストの真理性を見いださず、自分の気持ちにつながらないで、
魂の納得のないいまま信仰生活を送っているクリスチャンが、
多くこの日本には存在しています。
ですから、キリスト教の教会では、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事が、
神のひとり子イエスの死と、葬りと、死人からの復活という出来事が、
くりかえし、くりかえし語られなければならないし解き明かされなくてはならないのです。
それがキリスト教の2000年の歴史なのです。
北白川 スー
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Wrote up on June 20, 2007.