1人のクリスチャンを獲得するためのコスト



日本のキリスト教の教会は、
1人のクリスチャンを獲得するために、多額のコストをかけているのが現状です。

1人の人がキリストを受け入れ、また信じ、洗礼を受けるともなれば、
それは大変なことなのです。
教会をあげての行事となりますし、教会員一同も、一喜一憂する一大事なのですから。

しかし、聖書・バイブルの記述は、そうではない。
その日、3000人とある・・・。

・・・ペテロの説教に応えて、
「彼の言葉を受け入れた人々は、洗礼を受けた。
その日、3千人ほどの者が仲間に加えられた。」

(新約聖書・使徒の働き・2章41節・フランシスコ会訳聖書)

また別の記述では、(マタイによる福音書・14章17節・参照)
イエスをひと目見ようと、イエスの話しを聞こうと集まった群衆たちを前にして、
イエスは弟子たちに言われた・・・。
「『あなたたちであの人々に何か食べる物を与えなさい』と言われた。
弟子たちが、『ここには、五つのパンと二匹の魚しか、持ち合わせがありません』と言うと・・・・」
イエスは、5つのパンと2匹の魚を祝福して配らせ、
男子だけで5000人もの人たちの腹を満たしたと・・・。


彼らの家族である子どもや婦人たちも数えれば、それは膨大な人数になります。
しかし、この話しを聞いて、大抵のクリスチャンは、信じられないと言う。
自分たちの力量だと到底不可能だと、
それを実現するには、とてつもなく多大な努力と多額の費用が必要だと・・・。

「イエズス(イエス)は答えて、
『人はパンだけで生きるのではない。
神の口から出るすべてのことばによって生きる。』
と書き記されていると仰せになった。」

(新約聖書・マタイによる福音書・4章4節・フランシスコ会訳聖書)
(旧約聖書・申命記・8章3節・参照)

なぜ日本の教会は、1人のクリスチャンを獲得するために、
効率の悪いコストのかけかたをしているのだろうか・・・。
なんのため人を教会に集めているのだろうか・・・・。
バザーやコンサートや、
クリスマスやイースターなどの機会を利用して、
少しでも教会の雰囲気に親しんでもらうために・・・。

聖書は明確に語っている。
「信仰は聞くことから始まる」と。
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章17節)

「多くのしるしや不思議なことが、使徒たちの手によって民の間で行われた。
一同は皆心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。」

(新約聖書・使徒行録・5章12節・フランシスコ会訳聖書)

イエスが公生活のとき、人々に語って聞かせた所が、
「異邦人の庭」と呼ばれた神殿の外苑の東側にあるソロモン廊なのです。
人々は、イエスの権威ある話しを聞きたいがために集まっていたのです。

聖書・バイブルには、イエス・キリストの言葉には権威があると語っている。
その言葉を聞いて、心を刺された者は、その言葉を受け入れたと・・・・。
ただ語って聞かせるだけなら、コストなど微々たるものだろう。
それでいて、イエスの話すのを聞いた人たちは、心を動かされ、
考え方を変え、人生の向きを変え、イエスを受け入れ従っていったのです。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た、
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・1章14節・新改訳聖書)

キリスト教の教会では、権威あるイエス・キリストの言葉が語られているのです。
それで十分なのです。
救いの言葉なのですから。


北白川 スー

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Wrote up on July 03, 2008.