正しい者としての義を求めて



家庭や会社や地域社会などの人間関係がうまく行かないものだから、
自分の思う通りに行かないものだから・・・。
受け入れてもらえず、ストレスの持っていきように困り果て、
夫や妻や家族や友人にストレスのはけ口を求めてしまって、
希望を見出そうとしたのですが・・・、
自分の居場所がなくなり、身を置くところさえ失い・・・・。

心の痛みや悩みや不満や不安をかかえて・・・・・・、
自分の生き方にたいして肯定的なはげましの言葉を求めて、
キリストの教会に、それを期待し、またそれを求めてやって来る人がいます。

自分は正しいのだから、この状況から救われなければならない・・・・・と。
自分は正しいから、正しいからこそ、
この悪の社会から自分を救い出してくれるメシア・救い主が必要なのだ・・・・と。
救い主は正しい者のために存在するのだと・・・・・・。

しかし、聖書・バイブルは、まったくその逆を言います。

「 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、
不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。
情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、
彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、
和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
そればかりでなく、
私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、
私たちは神を大いに喜んでいるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章6~11節・新改訳聖書)

聖書は、罪人のためにイエス・キリストは十字架にかかり死なれたと語ったているのです。
この世界を造られた神にたいする礼を失した不敬虔な者のために、
その神との和解のためにイエスは命をささげられた・・・・。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。

決して、正しい者のために死なれたのではありません。
罪人のために死なれたのです。
神との和解を求め、その罪をつぐない、さらに新たな展開を生み出すために、

・・・いや、どう考えても私は正しいのです。
だから苦しめられている、だから苦しんでいるのに。・・・・

聖書が言わんとしているのは、
どのようにして苦境に追いこまれたのかということではなく、
人間の苦境が何であるかということを語っているのです。
私たちの思いや言葉や行為というものが、
何によって影響を受けているかということなのです。
その原因となるもの、そのみなもととなるものこそ・・・・。
「 ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、
ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・5章19節・新改訳聖書)

ひとりの人の不従順とは、
最初の人間アダムが、アダムを造られた神に従わず、それに反した行動をとったことを言い。
その結果、後に続く人類は、ひとりの例外もなく、ことごとく、
生まれながらに罪深さという性質を背負わなければならなくなったのです。

ひとりの従順とは、
神のひとり子であるイエス・キリストが、
父なる神の意志に従い、罪人として十字架に命をささげられた出来事を言います。

罪深さの中を歩んでいるすべての人の罪をあがなうために。

「人は。新しく生まれなければ、神の国をみることはできません。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3節・新改訳聖書)

どのような状況であれ、
もう一度、自分自身を見直すことを、
人間の本性・・・人間の本当の姿を知ること・・・・、
ありのままの自分に気づくこと、自分にたいする客観性を身に着けること。
あわれでみじめな自分に気づくこと。
そのようしてこそ、新たな展開が開けてくるのです。

「肉からうまれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章6節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on September 27, 2009.