だから教会は暗い??



一般の人たちには、”教会は暗い ”というイメージが定着しているようです。

では、なぜ、日本の教会は暗いのでしょうか・・・・。
室内の照明が暗いとかというような意味ではありません。
その場にただよう空気が暗いのです。
その表情に、うちひしがれた様子が見て取れるのです。
私は不幸だと言わんばかりに、深い悲しみの中に沈みこんでいるのです。
自分が今まさに経験している、また過去に経験した深い悲しみは、
その体験には、大変な苦しみや傷みが伴っていて、何か特別な意味があって、
それが自分にとって、とても大事なことであり大切なものであり、
その上に、今の自分があるのだと・・・・。

もちろん、その苦い体験があってこそキリストへの信仰を持つことになったわけなのですが・・・。
しかし、どこか向いている方向が違うように見えて仕方がないのです。

キリスト教の信仰というものは、信頼であり、希望であり、解放なのですが・・・。
希望とか、解放という言葉にはそぐわない、そこには無いかのような・・・・ほど遠いものが・・。

この暗さを、この暗さの中に身を置いているほうが落ち着くのでしょうか。
新しい展開よりも、
過去の、今の、この悲しみの中にいたほうが気持ちは落ち着くとでもいうのでしょうか。

なぜ、過去への執着から解放されたいとは思わないのですか。
ワクワクとして待つことできる新しい展開に、
期待させられるというものはないのでしょうか。

キリスト教の価値観とはいったいどういうことなのでしようか。
この世界を造られた創造主としての神は、
すべての物事を支配されているわけですから、
つまり、今も生きて働いておられる神は、
私たちをも造られたがゆえに、私たちを愛しておられるということではないのでしょうか。
そうであるがゆえに、私たちのために、
私たち自身の混乱や苦しみや悲しみのために、
神のひとり子であるイエス・キリストを、この地上につかわし、
その命をささげてまで、私たちを、苦しみや混乱の中から救いだそうとされたのです。
それがイエス・キリストの十字架の出来事・死と葬りと復活という出来事なのです。

よみがえり・復活を信じる信仰というものは、
過去に留まるのではなく、
今に留まるでもなく、
もとの場所から離れて、
新しい展開へと移り入ることを意味しています。
言い換えれば、自分の人生観を見直すということでしょうか。

暗さをただよわせている人は、
悲しみや苦しみにかかわる問題が未解決なのではないでしょうか・・・。
解決していなくても、解決に向かった展望を持っていないからではないでしょうか。

では、そのような人にとってキリスト教信仰とは何を意味していたのでしょうか。
キリスト教の信仰とは、
経済的には豊かでなくても、精神的に豊かで意味のある人生を送るために、
”生きていくという本当の意味 ”を持つということです。
ですから、自分の人生というものの中心となっている大切な事柄だと思っていることについて、
もう一度、考え直すチャンスを与えてくれるものなのです。
その後ろだてになるものこそ、イエス・キリストの十字架の出来事であり、
神の言葉である聖書・バイブルの言葉なのです。

現実を受け入れ、
今に留まらず、
神の言葉に聞き従って行けば、
必ず未来への展望が開けてくるのだと信じること・・・。
つまり、神への信頼・イエス・キリストへの信頼なのです。

この世界を造られた神と、この世界とのかかわりの中で、私たちは生きています。
しかし、この関係こそ、
日本の多くの人は気付いていません。
ですから、自分を支えていたものを失ったという、悲しみや混乱や苦しみというものが、
社会からも家庭からも、人間関係からも見捨てられたから生まれてきたのだとは思わないで・・・、
その喪失感は、
自分をとりまくまわりが、自分の思いを受け入れてくれないから生まれてきたと思っているはずです。
自分の思いを受け入れてくれたなら、すべてはうまく行くと思っているのです。
自分の思う通りになると・・・・。

かと言って・・・。
何か別の行動原理を与えて、それから引き離そうとするなら・・・。
ますます混乱は増すばかりでしょう。
それでは何の解決にもなりません。
自分の思い自体に問題が隠されていることを見い出させなければ、
自分にとって最も大切ものだと考えていることが、
その人が人生でもっとも大切だと考えていることが・・・、
すべての問題を引き起こしているとしたら・・・・。

自分の抱えている問題と真正面から向き合って取り組まなければ・・・。
根本的な解決にはなりませんし、縛りから解き離なつことはできないはずです。

イエス・キリストは、あなたの傷みを苦しみを、
誰よりも、その身体をもって知っておられる方ではないのですか。
あざけられ、ののしられ、ムチうたれ、
十字架にかかってまで、その命をささげられたのではないのですか。

「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、
正しくお裁きになる方にお任せになりました。
そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

(新約聖書・ペテロの第1の手紙2章22~24節・新共同訳)


北白川 スー

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Wrote up on March 17, 2008.