神を無視している私たち



教会のある風景、サンタクロースやクリスマス、そしてゴスペル・ミュージック。
それらは、違和感なくわたしたちの日常の暮らしの中にとけ込んでいます。

ですが、
キリスト教について、詳しくとは言わなくても、
キリスト教の根本的な、また中心的な教えについても、
名前はよく知られている
イエス・キリストが誰であるかについてさえも詳しいことは何も知らないはずです。

あいまいなではなく、キリスト教を根本から定める出来事すら、知られていないはずなのです。
つまり、キリスト教については何も知らないのです。
ましてやキリストの福音に付いては、
”良きおとずれ・良き知らせ ”といわれるキリストの福音すら、
まったくと言っていいほど知られていないのが現状なのです。

あらためてキリストについて、教会について話しでもしようものなら、
キリスト教信仰への招きでもしょうものなら、
相手に違和感を感じさせ、拒絶さえ起こさせてしまいます。
ときには、無視と憎しみと無関心に満ちた表情に出会います。

なぜでしょうか。
多くの日本人は、キリストの福音というものから取り残されているからなのです。
クリスマスであっても、キリスト教式結婚式であっても、
本来なら、かの出来事、2000年前に起きた、あの出来事において、
イエス・キリストが罪人として十字架にかかり、
十字架に死ぬことによって完成された、贖いの業という出来事において、
それによって語り、また為さなければならないのです。
そうしなければ、何ものも意味をも生み出さないのです。
クリスマスであれ、チャペルでの結婚式であれ、
イエス・キリストの十字架の出来事から説きほぐしていかなければ、

それらは、神を無視した”神のいない”くわだての他のなにものでもないのです。

それが神にたいする重大な罪だというなら、
わたしたちは、いつしかその代価を支払わなければならなくなるのかもしれないのです。

そうならないためにも、
教会は、自分の目の中の梁(はり)を認めなければならないのではないでしょうか。
教会は、キリストの福音の輝きを、教会の外に向かって光り放っていますか・・・・。
教会は、神を無視した神なき人たちのことを、
誰よりも身近に知っていなければならないのではないのですか。
だから、神なき彼らの無関心さを、教会自身の中に、
クリスチャン自身の中に認め、見いだそうとするなら、
神なき状態が、どれほどまで空しいものであるかを、自ら知ることになるのです。
そうでなくして、どうして福音を語ることができるでしょうか。

「あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるのです。
なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。
見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
そうすれば、はっきりと見えて、兄弟の目から、ちりを取り除くことができます。」

(新約聖書・マタイによる福音書・7章2~5節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on December 19, 2007.