たどり着いたところが教会なら



現代社会の人間関係に疲れ果て、
自分さがしの旅を続けて来た人が、
やっとの思いでたどり着いたところがキリスト教の教会なら・・・。

しかし、やっとの思いでたどり着いたキリスト教の教会が、
その人を、再び教会の人間関係に組みすることを強いるなら。

たしかに、その人は、救いを捜し求めていたことだろう・・・。
しかし、救いは、人間関係にはない。
教会の人間関係は、あくまで福音を聞き、かつ受け入れた人たちの相互の集まりなのです。

「ペテロの言葉を受け入れた人々は、洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わった。
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈のることに熱心であった。」

(新約聖書・使徒言行録・2章41~42節・新共同訳聖書)

だが、その人にとって教会の人間関係は、
それは、かつて苦しんできた組織や人間関係の束縛と同じものとしか写らないのなら。
教会が、再び教育と訓練を強いるようなものとしてとらえられるなら、
そこにあるものは苦しみの他のなにものでもないのです。

その人は、言葉に飢え渇いていたはずなのだ。
決して人間の言葉ではなく、
その言葉を、キリスト・イエスから得たのなら、
キリスト・イエスの言葉を得たのなら、
捜し求めていた言葉こそ、キリスト・イエスの言葉そのものであることを見いだしたのなら。

キリスト・イエスは、人間を束縛から解きはなつために、
この世に来られたのではないのか。
私たちのすべての罪をその身に負い、罪人として十字架につき死んでくださったのではないのか。
キリストの教会は、
捕らわれ人に自由を、解放を与えるキリストの言葉であり体ではないのか。

その人が、教会からさまよい出て、再び迷わないように、
キリストの教会は、キリストの言葉を、キリストの福音を、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という、
イエス・キリストの十字架の出来事を、 高らかに語り伝えなければならないのです。


「北白川スー」のウェブサイトへ寄せられる便りの中で際だって目立つのは、
教会の人間関係につまづいて教会を去って行かれた方からのものです。
ノン・クリスチャンから寄せられる便りには、
宗教というものは、人に束縛を与えるものだと。
教会をそのように見てとられているのなら、
クリスチャンは、自由と解放をもたらす教会のあり方というものを、
外に向かって明らかにしなければならないのではないだろうか。


北白川 スー

関連記事・「教会風景」

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Wrote up on july 21, 2007.