教会にも気むずかしい人はいます



教会にも、気むずかしく、人の目には好ましく映らない、いつもゴタゴタしている人がいます。
自分の今を守りたいためなのか、イライラと目先のことにとらわれパニックになっている人がいます。
その事には答えず、その人に言います。
”見えないものにこそ目をとめるように ”と。
まことの信仰を持てば、主イエスは必ず道を整えてくだることを知っているからです。
問題は、信仰があると言って、神の言葉を見過ごしてしまうなら、その信仰は幻想にすぎないのです。
信仰が、非現実的なものになってしまうのです。
信仰というものが非現実的なものであるなら、
その人にとって、教会も聖書の言葉も、イエス・キリストの十字架もむなしいものになります。

イエス・キリストが十字架の上で死なれたこと、
そして葬られ、三日目によみがえられたのは何のためだったのでしょうか。
イエス・キリストが、はずかしめられ、あざけられ、苦しみを受けて、
死までも耐えしのび、受け入れられたのは何のためだったのでしょぅか。

あなたが、イエス・キリストを受け入れたのは、
”イエス・キリストの十字架の死と葬りと復活 ”という出来事の内に、
わたしたちの日々の暮らしの中で繰り返される、苦しみや、争いに耐え、
それに死ぬことを見いだしたためではなかったのですか。

あなたの目の前にある問題がもっとも大事なものではなく、
本当に大切なものは、別にあるのだということを知ったからではないのですか。
それは、地上の家ではなく、天にある永遠の家のはずです。
地上の住まいがこわれても、神のくださる家があるはずです。
そのためにも今の問題にとらわれるべきではないのです。

「だれでもキリストうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

(新約聖書・コリント人への第2の手紙・5章17節・新改訳聖書)

毎日のように起きる、形をかえたさまざまな苦しみを、問題を、
人間として成長する機会として受けとめることができるように、
そして、どのような場合であっても、キリストご自身が支えてくださるように、
キリストへの信頼によって生きて行けるようにと・・・・、
それがキリストへの信仰ではなかったのですか。

「ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

(新約聖書・コリント人への第2の手紙・4章16節・新改訳聖書)

キリストへの信仰というものは、
たとえ今は、自分をとらえて苦しめているものであっても、
それはやがて過ぎ去っていくものであり、
つまり、目に見える一時的なものではなく、
目には見えませんが、”永遠にいたるものに ”心を向けることによって、
本当の自分が、日ごとに新しくされていることを信じることなのです。

人の目に好ましく映らないのは、自分のことを冷静に観察できないからでしょう。
自分の姿を冷静に見れなくては、何が必要なのかも分かりません。
しかし、あなたを静かに見つめておられ方が、いつも身近におられるとしたら、
その方に聞くのがいちばん早いとは思いませんか。


北白川 スー

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Wrote up on December 28, 2006.