多くの日本人は、キリスト教の教会で何が行われているのかを知らない



キリスト教がこの世界に生まれてから2000年もの長きにわたって、とだえることなく、
あきることなく、きまって日曜日ごとに行われる教会の礼拝では、ミサでは、
いったい何が行われているのだろうか、
何か秘密めいた儀式が行われているのだろうか。

多くの日本人は、キリスト教の教会で何が行われているのかを知らない、
それが現状なのです。
パン種を入れないパンをいただく聖餐式であったり、
それが何を意味するのかも知らないし、
賛美歌であったり、
講壇から語られる説教は、いったい何がメッセージされているのかを知らない。

多くの日本人が興味を示していても、
ごくごく入り口の近くに立っているだけで、中に入ろうとはしない。
なぜなら、教会の中に何があるのかが分からないからだ、
語られている説教は、何がメッセージされているのかも知らない。
ただ耳にするのは、中に入るための心得のようなものしか聞こえてこないのだから。

お酒やタバコもいけないとか、清く正しくだとか、
お金や富とは縁の遠い生活に満足するだとか・・・、
仏式や神道の習いによる冠婚葬祭はだめだとか・・・
なんだか不自由な生活を強いられるようで・・・。
だから入るのをためらわせているだけなのだ。
しかし、中に何があるのかさえ正しく正確に知らされれば、入ることすら容易なのだ。

だからといって、
教会がキリストの教会で語られなければならないものや、
覚えて行わなければならない儀式を取りやめたり、はぶいたりすることは許されないのだから。
それにこそ意味があるのだから。
それにこそキリストの教会が、この世界に建っている理由があるのだから。

私がまだ未信者だったとき、
教会で執り行われている聖餐(セイサン)式に接したとき、
そこに、魂をゆさぶる何かを、
おごそかな何かを見たものです。
隠したり、ごまかしたりすることのできない何か真剣な雰囲気のなかで、
いいかげんに取り扱ったりすることのできない厳粛なものを見たとき、
キリスト教の本質にかかわるものを感じ取りました。

「主イエズスは死にわたされる夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてから手で分け、
そして、こう言われました。
『これはわたしの体、あなたがたのものである。
わたしを思い出すために、このように行いなさい。』
食事が終わってから、主は杯について同じように言われました。
『この杯は、わたしの血による新しい契約である。
これを飲むときはいつでもわたしを思い出すために、このように行いなさい。』 
実に、あなたがたはこのパンを食べ、この杯を飲むときはいつでも、
主がおいでになるときまで、その死を告げ知らせるのです。」

(新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第1の手紙・11章23~26節・フランシスコ会訳聖書)

イエス・キリストが十字架の上で死をとして流された血は、
すべての人の罪を赦すために流されたものなのです。
”罪のゆるし”これこそキリスト教が2000年にわたって語り続けてきたテーマなのです。
罪についての意識や認識があまりにも希薄な現代社会です。
思いにおいて、言葉において、行為において、私たちはあまりにも多くの罪を犯し続けています。
その罪はどこから来たのでしょうか。
正直に自分と向きあうように仕向けるものこそ、
聖書・バイブルのメッセージなのです。
そして、イエス・キリストが再びこの地上に来られるとき、再臨と言います。
いったい何が起きるというのでしょうか。


北白川 スー

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Wrote up on May 23, 2008.