いつもの教会の朝・・・



クリスチャンでない「A」さんが、ときどき日曜日の朝に行われる礼拝にやってこられます。
そして、誰かれとなく人をつかまえては、とりとめなく色々な話しをされていかれます。
話しの中身は、身体のことであったり、昨日や今日のことや、
いままで自分の身のまわりに起きたこととか、
あれやこれやと、まとまりのない話しが続きます・・・・。

Aさんは、ただ話しを聞いて欲しいだけなのかもしれません。
まわりで聞いていて、
ここは教会なんだからキリストの話しをするとか、
信仰の話しをするとかすればいいと思うのですが・・・・。
悩みや傷みや苦しみや悲しみがあったら、打ち明けてくれたらいいと思うのですが・・・。

それにしても、礼拝の始まる前には、その準備がありますから、
準備に忙しくしている信徒さんの手を取られては困るのにな~~と思いながら・・・・。
そうこうしているうちにAさんは、牧師をつかまえて、あれやこれやと話しが始まります。
このようにして礼拝の朝は始まります。

さて、
何がどうであれ、Aさんにたいして、先ず語さなければならない事があります。
先ずは、伝えなければ話しにならないのです。
それは、イエス・キリストの福音、
イエス・キリストの十字架の出来事の話しです。

Aさんは、寂しいのかもしれませんし、人恋しいのかもしれません、
日々の暮らしにストレスを覚えておられるのかもしれません。
話し相手がいないのかもしれません。
心に平安も安らぎもないのかもしれません。
だからこそ、
Aさんに伝えなければならないことがあるのです。

教会には、実に色々な事情を持ち合わせている人たちがやってきます。
そのような人たちすべてに、救いと癒しと解決と平安とを与えるのは、
人の言葉ではなく、イエス・キリストの福音そのものなのです。

Aさんへの、安易ななぐさめの言葉では、なにものも解決はしません。
ただ伝えなければならないのは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の出来事だけなのです。
イエスの死と、葬りと、復活の出来事を・・・・・。

Aさんにとって教会は、
キリストの福音が、すべての人に救いを与える神の力であることも、
2000年もの昔から語り告げられている事柄なのだとは、考えたこともないのでしょう。
キリストの福音が自分にとって、深く関わりのあることだとは思いもよらないのでしょう。
イエス・キリストの十字架の出来事は、
自分にとってリアリティーなことではないのでしょう。

話しぐらい聞いてあげたら・・・・と言う声も聞きます。
それでは、いつまで経ってもAさんに平安な時間はやってきません。
まずは静まって、神の前に出ること・・・・。
そして神に聞き耳をたてること・・・・。
人の声ではなく。
すべてはそこから始まります。

主なる神は、Aさんに語りかけておられるのですから。

キリストの教会に一歩足を踏み入れたとき・・・、
何か、身体を包み込むような・・・、
気を呑まれるとでも言えばいいでしょうか、
まわりを圧するような・・・、
自らに静まることを強いるような雰囲気とでもいうべきものが漂っていたら・・・。
ただ、ひれふさなければならないような空気が漂っていたなら・・・。
そうだったらAさんは、教会には来ないかもれしませんが。
Aさんが教会に期待しているものと、
教会がAさんに求めようとしているものとの開きは大きいのかもしれません。

ただ分かることは、Aさんは聞こえない悲鳴をあげているということだけです。

「私は福音を恥とは思いません。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、
信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章16節・新改訳聖書)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・3章17節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on September 11, 2007.