自分の義を信仰に求めるなら



日本の教会でよく見かける風景として、
”自分は正しいから救われたい ”と教会にやって来る・・・。
自分のかかわっている人間関係や、
自分をとりまいている社会の中で、
さまざまに、自分の思いから遠いものがある場合・・・。
自分の思いや考え方ややり方が受け入れられない・・・。
評価されない・・・・。

それは、とてもつらいものです。
せめてキリスト教の教会なら、
自分の義を、自分の正しさを認めて受け入れてくれるだろうと考えて。
・・その通りで間違ってはいないと・・・。
自分の生き方にたいして肯定的な言葉や、
励ましの言葉や扱いを期待して・・・・・。

なぜかと言えば、
日本のキリスト教会の傾向として、
現代社会の中で傷つき疲れた人たちにたいして、
上記のような態度で接しようとする姿が一般的だからです。

しかし、ここであらためて考えなければならないのは、
自分の義を信仰に求めようとするなら・・・、
そうであるなら、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という
(あがないのわざ)というの出来事は意味を失ってしまうのです。

社会の中で傷つき疲れた人と言えども、
決して、私たちすべての人間は義なる存在、善なる存在ではないからです。
すべての人間たちは、神の前では正しい者ではないからです。
神の前で正しい者とは、神の価値観の下にある者です。

教会に初めてやって来た人にたいして、
まず第一に、イエス・キリストの十字架の出来事について解き明かされないのなら、
人は自分の義についての誤った、
聖書的ではない感想を持ってしまってもおかしくはないのです。

聖書は、
「正しい者はいない。一人もいない。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10節・新共同訳聖書)

「神を知らぬ者は心に言う、神などいないと。」
(旧約聖書・詩篇・14章1節・新共同訳聖書)

と語っています。
自分自身が罪深く罪人であることが認識されてこそ、
救いというものが解き明かされるのですから。
私たちは救われなければならないのです。
それは、ひとりの例外もなく、
人はみな堕落しているからなのです。

すべての人は迷い、
だれもかれも役に立たない者になっているからです。
だから救われなければならないのです。
しかし、救ってくださるのは神ご自身なのです。
本来なら、罪深い私たちが神によって裁かれなければならないのですが、
神のひとり子イエス・キリストが、私たちに代わって神の裁きを、
その身に受けられたのです。

救いを得るための力は私たち人間にはありません。
救いは神のみができること、
救いは神からやってくるものなのです。

この世界を造られた神に背いてしまった人間・・・。
その罪が、私たちの思いや言葉や行為となってあらわれます。
それが現実の私たち人間の姿そのものなのです。
神に背いた以上、神によって裁かれます。
しかし、その裁きから救ってくださるのも神なのです。

「福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章17節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on February 18, 2010.