信仰する、というスタイル



何をきっかけに、何を信じて、キリスト教に信仰を持つようになったのかを考えてみますと。
ただ単に神を、イエス・キリストという存在を、イエス・キリストという歴史上での人物として、
そのような対象を、信仰の対象とすることもできます。
または宗教的な建物や儀式といったものに、別世界にいるような感動を覚えて、
荘厳さとでも言うべき雰囲気に信仰を持つ人もおられることでしょう。
だれでも分けへだてなく受け入れてくれる教会に信仰することもあるでしょう。

キリスト教では、基本的に、信仰を成立させている理由として、
人間が生まれながらに負っている性質、知らずと持っている罪深さ・「原罪」というものと、
それに関わるイエス・キリストの”十字架刑による、あがない”の出来事を理解した上で、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事を理解した上で、
なぜキリストなのかという背景を知り、また理解した上で、
イエス・キリストに信仰を持つということが筋なのかもしれません。

教会の現実として、
私たちは人間ですから人それぞれに個性があり暮らしの環境も人間関係もさまざまです。
ですから信仰の持ち方も人それぞれなのかもしれません。

「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』
『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。
キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。
パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。
あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」

(新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第1の手紙・1章12~13節・新共同訳聖書)

しかし困ったことに、これではキリスト教として成り立たないのです。
キリスト教には根本的な考え方、価値観、世界観があるのですから。

「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、
福音を告げ知らせるためであり、
しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、
言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
わたしたち救われる者には神の力です。」

(新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第1の手紙・1章17~18節・新共同訳聖書)

キリスト教信仰というもは、まぎれもなくイエス・キリストが十字架の上で、
その命をもって、私たちの罪深さというものを、
人間の始祖であるアダムが、父なる神に背いたときから、人類が背負ってしまった、
私たちが生まれながらに持っている罪深い性質・それを「原罪」と言いますが・を、
イエスは自らの命を差し出して、私たちの身代わりとして死ぬことによって、
私たちの代わりに、神の怒りの裁きを引き受けてくださり、
父なる神との和解を、そしてその原罪をあがなわれた出来事なのです。

ですから、キリストを信仰するということは、
その十字架の出来事を受け入れた上での信仰というものになります。
信仰し始めた最初のことろは、キリスト教信仰という目新しさに信仰して、
最初のうちはそれを情熱的に受け入れるでしょうが、

イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事の意味を十分に理解していなければ、
いつしかその熱も冷めてくるものです。
人間というものはそのようなものですから、
ですから、キリスト教の教会で毎日曜日に行われる礼拝において、
くりかえしくりかえし語られるイエス・キリストの十字架の出来事の説き明かしがあってこそ、
それが、つねに同じ言葉であっても、そのメッセージを聞く者の心に、
心の内面の変化によって、物事を見る視野も広がりもし、
新しい世界への目も開かれ、心の重荷も取り除かれ、
精神的な支えにもなり、心の渇きも満たされるはずなのです。
そうであってこそ、熱心な信仰というものが持続するのです。
くりかえしくりかえし聞かなければ、一度だけ聞いたぐらいでは、
イエス・キリストの十字架によるあがないの出来事など理解できるものではありません。

この日本では、あまりにもクリスチャンとしてどうあるべきかとか、
クリスチャン・スタイルはどうあるべきかとか、
信仰のとらえ方や、信仰のあり方とか、
信仰入門とか聖書の読み方とか、何かとハウツウにこだわる傾向にありますから、
ついついイエス・キリストの十字架の出来事の説き明かしが後回しにされることが多く、

教会も同じ人間の集まりです、不充分なところも多くあります。
クリスチャンとしてのスタイルやあり方にこだわりすぎて、
それが重荷となって、また疲れ果て、情熱も冷め、
かつては熱心に教会に来ていたものが、いつしか来なくなってしまったりと・・・。
イエス・キリストの十字架の出来事による平安よりも、
教会のさまざまな活動に疲れ果てたり、
信仰につまずき、教会生活につまずき、牧師につまずき、自分自身にもつまずいてしまって。
教会の人間関係に傷ついてしまって教会を去って行かれた方もおられます。
そのような人たちに、本当にキリストの福音は届いていたのでしょうか。

もしも私たちが、神が望まれることを行わず、
私たちの事情によって、私たちの望むところを行うなら、
私たち以外のだれが、私たちを建て上げてくれると言うのでしょうか。
それが、神への信仰なのでしょうか・・・・。

「福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章17節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on October 28, 2007.