ささげる賜物??



熱心に信仰し、熱心に奉仕し、熱心に献金をささげる
「ささげる賜物」があると呼ばれるクリスチャンが、
しきりに苦悩を訴えています・・・。

形においてはすでに納まるところに納まってはいるようなのですが、
今もなお解決していないのだろうか、それとも今もなお解決できない何かがあって、
どうしたらよいのか迷い苦しんでいるのだろうか。

たしかに自分の過去に行なったことが、ビジネスを破綻させ、家族をも苦しめたからだ。
いまだに、その負い目をひきずったままなのだろうか・・・。
今もその傷は癒えていないのだろうか。

だから”ささげる ”ことによって、何かから解放されたいと・・・・。
罪を悔い、あやまる意味なのか・・、
罪の意識から、”ささげる ”という行為によって身をきよめたいと・・・・。
それでは、まるで「みそぎ」ではないか。

なんだか、
負い目を引きずったままでいたのでは・・・、
自分の背負っている負い目というものが自らの魂に与える影響という、
日本人の心情をよく表しているのではないだろうか。

聖書・バイブルは、次のように語っている。

「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、
その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。
というのは、キリストは自分自身をささげ、
ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」

(新約聖書・ヘブル人への手紙・7章27節・新改訳聖書)

・・・私たちは日々いけにえをささげる必要はありません。
私たちに必要とされる罪にたいするいけにえは、
このいけにえはただ一度、
キリストが自分自身をささげることによって、成し遂げられたのですから。・・・

この聖書の言葉は、
イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったことによって・・・。
イエス・キリストの十字架の死によるあがないのわざという出来事を信じる者は、
その出来事を、自分の事として受けとめる者は、
自らにも適用されたのだと。
キリストと私とを重ね合わせて見ることができるのだと。

その出来事によって、
罪のゆるしを得て、
罪の縄目から解き離たれたのです。
自由の身になったことを意味しています。

ささげることによって、なんとか身をきよめたいと思っている人は、
つまり、心が責められ、
いまだに罪にさいなまれ、
追いかけられ、
いまだにあがなわれず、いまだに自由の身になっていない人は、
このキリストの十字架の出来事をどのようにとらえているのでしょうか。

イエス・キリストを信じ、キリストの十字架の出来事を信じた者は、
”信じることによってきよめられた者は、”
一度きよめられた以上、罪の意識がなくなるはずなのです。
ささげることによって安心を得ようとする行為も止んだはずなのです。

「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、
律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、
完全にすることができないのです。
もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、
一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、
したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
ところがかえって、ささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。」

(新約聖書・ヘブル人への手紙10章1~3節・新改訳聖書)

機会を逃さず、くりかえしくりかえし、イエス・キリストの十字架の出来事が、
語られ、解き明かされ、
聞いた者が、それを自分のこととして受けとめているでしょうか。
もしそれが、機会を逃すことなく、理解し自覚できたとしたら・・・・。
罪を意識しなくなるはずなのだが・・・。

そうでない場合は、
その口から、
”イエスの十字架の死によるあがないの業によって救われた ”という言葉を聞くことはない。


北白川 スー

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Wrote up on February 21, 2008.