福音が届かないまま去っていく
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日本の人口・1億2千700万人の中のわずか1パーセントにも満たない状態が、
長年にわたって、特に変化がみられないまま続いているという・・・、
つまり100人の人がいて、その中にクリスチャンが1人いるかいないかという現実を・・・・。
キリスト教の世界に身を置くようになり、
日本のキリスト教にかかわりを持つようになって、
日本の教会やクリスチャンの事情というものを、
少なからず知るようになり、
何かと考えさせられる今日このごろなのです。
礼拝に出席する人が増えもすれば、減りもするという・・・。
信仰を持つ人もあれば、教会を去っていく人もあるというのが現実なのです。
聖書・バイブルの言葉にふれて、そこに新しい世界を見いだしたり、
信仰に、生きがいを見いだそうとしたり、
キリストに何ものか信頼できるものを見いだしたのだけれども、
信者になって教会に籍を置くことは、
毎日曜日の礼拝や教会奉仕に、新たな、教会という人間関係に身を置くことは、
それなりに覚悟がいることなのだと理解させられているのです。
最初は目新しいものですから、教会に通うことが楽しく苦にもならないのですが、
しかし、いつしか、
・・大切なキリストの福音の本質に届かないまま・・
教会の人間関係が見えてくるにつれ、とまどいを覚えて、教会から足が遠のいてしまうのです。
教会で何かできると期待していたにもかかわらず、
強制でないにしても、教会のさまざまな活動に振りまわされて、
聖書が語るように、重荷を下ろせるところであるはずの教会が、
かえって行けば行くほど心の負担を感じるようになったりするのです・・・。
キリストの福音は、ゆるしであり、いやしであり、回復であり解放であり自由のはずです。
そうであるのにもかかわらず、
出会い、期待し、求めていたはずの、自分の心の中の中心の問題を、
どこかに置いてこなければならなくなってしまうのです・・・。
日曜日に行われる教会の礼拝で語られる説教・メッセージは、
メッセージを聞く人に、
キリストの福音の本質に届いていただこうという姿勢で語られているはずです。
メッセージされる ”キリストの言葉 ”は、
聞く者の心をとらえ、内面に変化をもたらし、
かつては知らなかった新しい世界へと、
視野が広がっていくものなのです。
それなのに、
聖書の言葉を聞いて、そこに権威ある言葉を見出し、
神に向き合おうとする姿勢とでも言えばいいのか、
心にある姿勢を持ったものの、
そこに教会の人間関係のわずらわしさが立ちはだかったとしたら。
以前には知らなかった新しい言葉を聞いて、
その新しい言葉に応えて、方向転換が始まったと喜んだのもつかのま、
新たな人間関係に身を置かなければならないという、
新たなジレンマが、新たな副作用が発生しそうな予感までして、
板ばさみに突き当たってしまったなら。
なぜイエスは十字架にはりつけになったのか。
イエスは神であられる方なのに、なぜ死ななければならなかったのか。
なぜ、ひとりの人がすべての人のために死なれたという出来事が起きたのか。
聖書の言葉の深い意味に目が開かれることによって、
人は成長していくのだろうか。
それとも、教会の人間関係によって信仰は育つのだろうか。
「それは、イエスの御名によって、
天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、
父なる神がほめたたえられるためです。」
(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章10~11節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on July 31, 2008.