招きはしないで



キリスト教信仰というものが、何らかの形で、それが誤ったものであっても、
それが本来的なものから逸れた離れたものであっても、存在することができます。
しかし、個人的なイエス・キリストへの信頼となると、
それは、イエス・キリストの存在そのものへの理解なくして有り得ません。

それは、イエス・キリストの十字架の出来事と密接に、
十字架による死と、葬りと、三日の後の死人からの復活という出来事に
立脚した信頼でなければなりません。
その出来事そのものに、自らの立つ立場を求めるものと言っていいからです。

なぜ、イエス・キリストが十字架の上で罪人として処刑されたという出来事が、
私たちの人生にとって、大きなかかわりのある出来事として教会で語り伝えられているのでしょうか。
しかし、仮にも、
このイエス・キリストの十字架の出来事を、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を、
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いの業という出来事が十分に語られないで・・、
つまり、福音を薄めたり、福音を除いたりすれば、
疎遠になっている教会のまわりの人と教会との距離を埋めるために、
教会のまわりの人の気持ちにそったものとして、
距離感を埋めるために・・・福音を薄めたり、福音を除いたりすれば、

こちらの気持ちは通じるけれど、
それは、ふさわしくない形で伝わるに違いない。
違ったニュアンスで伝わるに違いない・・・。

イエス・キリストの十字架の死によるあがないのわざという出来事ではない、
他の何ものかとして理解されるかもしれないのだから。

教会で催されるイベントに未信者の友人を招いたクリスチャンの婦人が言っていた。
せっかく教会に足を運んでくれたのだから、嫌われたくはない。
だから、”信仰への招き”をしないで欲しいと。
二度と教会に来てくれなくなるかもしれないから・・・。

どうも、その婦人の心の内には・・・、
ストレートに本音として出してはいけないという日本的な徳目や倫理を引きずっているのかもしれない。

しかし、何かを・・・、
何かをどこかへ置き忘れてきているように感じます。
「神についての深遠な問いかけ」を、
簡単には理解できないような深みのある問いかけを・・・、
どこかへ置き忘れてきたのではないだろうかと。

イエス・キリストへの信頼というものと、キリスト教信仰というものに違いがあるのかもしれない。
一般の人が思い描くキリスト教信仰というイメージと、
本質的なイエス・キリストへの信仰というものにへだたりがあるのかもしれない。

イエス・キリストの十字架の出来事を聞いたことのない人は、
キリスト教というものを、ただ外からかいま見る情報だけに頼って判断しているはずだ。
そのような人たちにたいして問いかけなければならない事柄は、
教会に親しんで欲しいということではなく・・。
神についての深遠な問いかけではないだろうか。

”私たちが在るところに、神ご自身も在る”ということをである。
もちろん、イエス・キリストの十字架の出来事こそが、
その証明に違いないのだが・・・・。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

(新約聖書・ルカによる福音書・5章32節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on March 20, 2008.