福音なき信仰



キリストに出会って教会に行くのではなく。

自分を理解してほしい。
励ましや安心が欲しい。

教会が、現代社会の病理に傷つき苦しんでいる人たちの、
カウンセラーのごとき存在として認識されている現実・・・・。

福音の内容と意味とが明らかにされていない以上・・・・、

人が現実に生きていて起きてくる、さまざまな問題を、
その問題の根本的な原因を明らかにすることはできません。

福音の内容と意味とが解き明かされて初めて、
問題の根本的な原因が明らかになります。

つまり、人間の、生まれながらに負っている性質というものを、
人の心に内在し、人を迷わせ、人を縛っているものを、
人生の背後にあるものを明らかにしなければ、
少なくとも、人の道を正すことはできません。

現実社会にある、
弱っている人、病んでいる人を見捨てよと言っているのではありません。
社会の中にそのような人たちを作ってしまった、
根本的な原因を明らかにすることなのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
(新約聖書・マタイによる福音書・11章28節・新共同訳聖書)

この聖書の言葉は、特定の人たちを相手に語られたのではありません。
疲れた人、弱っている人・・・とは、すべての人が迷っているのです。
だから、ひとりの人がすべての人のために死ななければならなかったのです。

ただ、多くの人は、
自分が疲れた人弱っている人だと気づいていないだけなのです。

福音とは、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのですから。

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。
わたしたちはこう考えます。
すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、
すべての人も死んだことになります。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on February 23, 2015.