教会があえて福音を説かないとしたら
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キリストの教会が、あえて、福音を、
イエス・キリストの十字架の出来事こそが、
神の究極の選択と態度の決定なのですが、
神の啓示そのものなのですが、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とを、
解き明かさない・・・・としたら。
知り得ることの機会の少なさからくる誤りがあったり、
説かないことへの抵抗があったりすることを承知のうえで、
あえて、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事を、
教会の礼拝における説教において語られないのは・・・・。
それは、人への配慮、心くばりなのです。
どのような人にたいしての心くばりなのでしょうか。
すべての人間というものは、
心の中で、何かを求めているのです。
心の深いところで、
深いものに触れたいという求めがあるのです。
それは、この世界を造られた創造主なる神によって、
”ご自身のかたちに ”人を創造されたからなのです。
被造物であるところの人間が、
神に背いて禁断の木の実を食べたことによって、
楽園から追放されて以来、
信頼する存在を失ってしまった結果なのです。
心が何か深いものに触れたいという求めは、
”以前に何かがあった、
何かが行われていた”ことを示しているのです。
日本の現在のキリスト教の教会に集まっている人の多くは、
直接、神の啓示を聞いて、すなわち、
イエス・キリストの福音を、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事の解き明かしを聞いて、
聞いたことによって信仰を持つことになったのではなく、
すなわち、神によって呼び集められた人たちではないのです。
自らの何らかの意思によって教会に行くようになった人たちなのです。
このような感想は、とても大胆な推測ですが、
神によって呼び集められた人たちなら、
そこには、イエス・キリストの十字架の出来事が光り輝いているはずです。
もともと私たち人間は信心深い存在なのです。
イエス・キリストがいなくても信仰は持てます。
経済的に豊かであっても、不自由なく満たされていても、
それでも、私たち人間は、何んらかの高みに立ちたいと、
真実とでも言うべきものに触れたいと・・・・。
私たち人間は本質的に、
何ものかに渇いている(かわいている)のです。
キリストの教会でイエス・キリストの十字架の出来事が説き明かされなくても、
神の啓示が語られなくても、
どのように信仰すればいいのかという、
信仰のハウツウだけが語られれば、
人の心は満たされるものなのです。
しかし、それでは真理へ到達したことにはなりません。
「・・・・・だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・7章37〜38節・新改訳聖書)
ただ、世間からいらぬ誤解を受けないためにだけ、
より良きクリスチャンになるためだけに、
教会において説教が語られるなら・・・。
それは真理へ到達したことにはなりません。
「 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、
自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、
その人の内には偽りがない。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・7章18節・口語訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 04 July 2011.