聖書・バイブルを開くということは
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だれしも、今よりももっと豊かな暮らしをしたいと望むのはごく自然なことです。
そこに不安があり、心配があり、苦しみかあるからです。
だから、そこから抜け出したいと、
それが望みですし願いです。
だから祈り求めるのです。
しかし、苦しみ不安におののく自分の姿があることに気づいていますか。
何かにとらわれ、追いつめられている自分の姿に気づいていますか。
そのような自分の姿に気づいて、はじめて、
はじめて、せまくてきゅうくつなところに閉じこめられている自分の姿に気づくはずです。
今まで見えていなかった自分の姿が見えてこそ、
自分は間違っていないと、自分のやり方や考え方は正しいと思っていた自分の姿に、
そのような自分にしがみついていた、愚かであわれな自分の姿が見えてくるはずです。
自分を疑うこともしなかった自分に・・・・。
そのことが分かってはじめて、目が開かれ、聞く耳が開かれてくるのです。
目が開かれてこそ、聞く耳を持っていなかった自分の姿が見えるからです。
クリスチャンにとって聖書・バイブルは、手もとにあって当然なのですが、
しかし、そのような心の持ち方で聖書・バイブルを開いたことがあるでしょうか。
聖書の言葉に聞いてみようと・・・・・。
愚かであらわな自分にしがみついていた自分の姿が見えてこそ、
聞く耳を持たずに閉じこめられている自分の姿が見えてこそ、
はじめて、聖書の言葉に、
神の言葉に聞こうという心の姿勢が生まれてくるのではありませんか。
それこそ、閉じこめられていた闇の世界から、
その闇の世界に射し込んでくる光に身を向けた瞬間なのです。
自分を閉じこめていた世界から、
希望に満ちた光の世界へ羽ばたいた瞬間なのです。
方向転換の瞬間なのです。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)
信仰は、聞くことに”よりどころ ”を持つものです。
生きて行くうえに必要な、心の支え、生きがいを与えるものだからです。
キリスト教の信仰は、イエス・キリストの十字架の出来事に聞くことから始まるのです。
聖書・バイブルの言葉に聞くということは、
聖書の言葉を通して、
キリストなるイエスとの心の通い合いを持つことができるということです。
山あり谷ありの人生を生きていくには、
やはり心の支えが必要でしょう。
さまよい歩いている、ありのままの自分の姿を見失わなかったなら、
支えを必要としている自分の姿を見失わなかったなら、
キリストは目には見えませんが、
聖書の言葉を通して、その姿を知り、
その言葉によって支えられ、
キリストへの祈りを通して支えられるのです。
クリスチャンの日々の暮らしは、聖書・バイブルと切っても切れない関係にあります。
しかし、信仰があると言って、聖書・バイブルを、決して神棚に飾ってしまわないようにしてください。
明日への希望を持たない人の日常は、
実に慌ただしく落ち着きがないものです。
聖書を開き、神の言葉を聞いてこその信仰であり祈りなのですから。
北白川 スー
Su-Kitashirakawa Official Website
Wrote up on October 18, 2015.