神の恵みは届いていますか


 日本のクリスチャン人口は、1パーセントと言われています。

 日本でのキリスト教の布教・宣教は長い歴史がありますが、

 キリスト教の信仰においては、

 いまだに後進国と言っていいでしょう。

 別の信頼できる統計調査によれば6パーセントという報告もあります。

 1パーセントという数字は、日曜日の礼拝に集まっているクリスチャンや求道者やノンクリスチャンたちの人数をあらわしています。

 6パーセントという数字は、教会にはつながっていないが自称クリスチャンや、

 かつては洗礼も受け、教会の礼拝に行っていたが今は教会から離れてしまったクリスチャンたちの数字をあらわしています。

 キリスト教の信仰を持つということは、

 ” 福音 ”が届いて、その福音を聞き、そして受け入れたことを意味しています。

 そうではない信仰も、もちろんあります。

 福音とは、

 ”良き知らせ・ゴスペル”と言われるものは、いったい何なのでしょうか。

 それは、イエス・キリストの十字架の出来事なのです。

 2000年前、イエス・キリストが十字架にかけられ、

 罪人として処刑された出来事、

 そして葬られ、三日の後に死人のうちから復活したという出来事なのです。

 神のひとり子イエスは、罪人として、

 すべての人の、” 創造主なる神への罪 ”をその身に負い、

 その罪を贖って(あがなって)くださった出来事なのです。

 ”ひとりの人がすべての人のために死んだ ”という出来事なのです。

 この出来事が私たちに向かって語られ、

 私たちが聞くことができるなら、

 その出来事は、初めて、神の恵みとして、

 私たちのところに届くのです。

 その出来事が語られないのなら、

 それはすでに神の恵みではないのです。

 神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による、

 贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の、

 その内容と意味とが解き明かされないのなら、

 それは、もうすでに神の恵みではなくなっています。

 その出来事が語られてこそ、

 その出来事が神の恵みとして私たちのところに届くのです。

 福音は届いていますか・・・と問うとすれば。

 すなわち、神の恵みが届いていますかと問うとすれば。

 それは、イエス・キリストの十字架の出来事の解き明かしが、

 語り伝えられていますか・・・・と、問うているのと同じことなのです。


 「事実、あなたがたは、恵みにより、

 信仰によって救われました。

 このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」

 (新約聖書・エペソの信徒への手紙・2章8節・新共同訳聖書)


 福音は、良き知らせ・ゴスペルは、

 唯一の神の言葉として、

 真理の言葉として、すべての人に届けられるのです。


 「すべての良い贈り物、

 また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、

 光を造られた父から下るのです。

 父には移り変わりや、移り行く影はありません。」

 (新約聖書・ヤコブの手紙・1章17節・新改訳聖書)


 決して、個人的な必要を満たすことが、

 キリストへの信仰ではない。

 すべての人に向けてイエス・キリストは語られたのです。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 罪の赦し。神の裁きからの救い。永遠の命・・・・は、

 すべての人が対象なのです。


北白川 スー

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Wrote up on 31 January 2011.