イエス・キリストを知らない日本
ゴスペルミュージックの教室が流行っていたり、
11月の終わりごろから、街のあちらこちらが色鮮やかなイルミネーションで飾られるようになります。
そうだからと言って、決してそれらがキリスト信仰の証しではありません。
カルチャースクールでゴスペルを、汗して歌って踊っている人も、
イルミネーションで飾られた家々の住民もクリスチャンではないはずです。
聖書・バイブルに次のような記述があります。
「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
彼は世にいた。
そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・1章9〜12節・口語訳聖書)
この彼とは、イエス・キリストにほかならない。
すべての人を照らすまことの光が世界にやって来たわけです。
すなわちイエス・キリストです。
イエス・キリストは、ご自分の国に来られたのに、
ご自分の民は、イエスをキリストとして受け入れないのです。
私たちは、イエスをキリストとして、
すなわち救い主・メシアだとはまったくもって認識していません。
ましてや受け入れようとはしないのです。
知らないものは受け入れようがないのですから。
これが日本の現実でしょうか。
イエスがキリストだとは、キリストすなわちメシア・救い主だとは気付いていないのです。
言い換えれば、
なぜ、自分たちにとってメシア・救い主が必要なのか、
つまり、自分の罪深さを認めないということです。
自らの罪深さに気付いていないのです。
キリストがこの世界に生まれたということは、つまりクリスマスです。
キリストがこの世界に来られたということは、
この世界が神の目から見て、私たちすべての人間を含めたこの世界が、
神の目からみて悪に染まり堕落しているということなのです。
しかし、私たち人間は、自分たちの罪深さに気付いていません。
自分たちの罪深さに気付いていないということは、
イエス・キリストが生まれたということも、
イエス・キリストが十字架にかかり死刑となり、
葬られ、三日の後に死人のうちから復活したという出来事の、
ことの大きさ、この出来事の意味する大きさ、
私たち人間にとっての大切さというものも、
分かっていないということになります。
ですから、
キリスト教の教会が、
イエス・キリストの十字架の出来事が、
私たち人間にとって、どれほど大切なものであるかを語らなければ、
私たちに知らされなければ、
聞くことも、理解することもできないのです。
私たち人間の罪深さを語り示さなければ、
自分たちの罪深さに気付くこともできないのです。
自分の罪深さ気付いてこそ、
イエス・キリストへの信仰を抱くこともできますし、
自分の思いや言葉や行為を悔い改めることもできるのですから。
イエスをキリストとして、自分のメシア・救い主として受け入れることもできるのですから。
北白川 スー
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Wrote up: 01 December 2008.