すべての人が直面する問題、それが福音



福音について、イエス・キリストについて、クリスチャンについて、
キリスト教の信仰について小論をタイプし続けているわけですが。

クリスチャンである私のまわりでも、
信仰の友人たちからでも、
キリスト教の諸団体の違いを越えて、
キリスト教の組織や教派や教団や教会のかきねを越えて届いてくる声を聞くにつけ・・・、

この日本では、せっかくイエス・キリストを信じて信仰を持つようになっても、
さまざまな理由から洗礼を受けられなかったり、
イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けても、
何らかの理由で教会から離れて行く人が絶えないという現実があり・・・。

教会においても、
長年にわたって礼拝出席者数が伸び悩んでいる状況もあり・・。

依然として、
人口比にして1パーセントのハードルを越えることができないでいるクリスチャン人口の現実を考えても・・・。

信頼できる統計調査の数値では、
教会に所属している人たちや、
教会から離れてしまった人たちや、
洗礼を受けていない人たちを含め、
教会に属していない人を含め、
自分はクリスチャンだと答える人が、
自称クリスチャンが、7パーセントをかぞえることを考えても・・・。

この日本、なぜにキリスト教が広まらないのだろうかと、
なぜなのかと、率直に疑問に思うわけです。

聖書・バイブルは、知恵の書であり、歴史書であり、文学書であり、預言書であると言われます。

日々の暮らしに役立つであろうさまざまな教えが書かれています。
人間の歩むべき道を教えています。
たしかに信仰の書ではあるのですが・・・。

しかしどうも、信仰の対象として存在しているはずのイエス・キリストの本当の姿というものが、
イエス・キリストそのもの、
そしてイエス・キリストが十字架にかけられ死刑となり、
葬られ、三日の後に死人のうちからよみがえった、
復活したという出来事が、

それが ” 福音 ”というものの中身だということが、
その内容と意味とが、
具体的に教会で語られているのだろうかという疑問に、
常に突き当たるのです。

神のひとり子であるイエス・キリストが、
つまり、神が人となられて、
神の意志と決断を、私たちに、明きらかに示すため、
私たちの世界に来られたという出来事が、
福音というものの本質なのですが・・・・。

この世界を造られた創造主なる神が、
私たち人間をも造られた父なる神ご自身が、
ご自身のまことの姿を示しあらわされることによって、
被造物としての人間にたいして、
人としてのあるべき姿を示し教えられたということ・・・。
つまり、神に聞き従って生きることを・・・・。

イエス・キリストの出来事の上に、
私たちの信仰そのものが立っているわけなのですが・・・。

しかしどうも現実は、そうではないらしい。
現代社会にあって、教会が負わされている役目というものに、
福音の本質から離れたものがあり、
それがキリスト教信仰を日本の社会に広く根付かせる妨げになっているのではないだろうかと。

信仰というものは日常と共にあって、
日々の暮らしの中に、また経営の中に、また学園の中にあって、
生きている人間と共にあるべきものであって、
決して、教会だけが、礼拝だけが、教会生活だけが信仰ではないのです。
普段の暮らしの中に溶け込んで存在しているものなのです。

キリスト教は許すけれど、洗礼は受けてはならない・・・。
教会に行くのは許すけれど、
信仰するのは自由だけど、
家族の習慣や風習を乱してはならない、
いつもそうしている親戚とのつきあいや家族生活を乱してはならない・・・。
これが現実なのです。

慣れ親しんでいる生活習慣を乱すなと。
共同体の秩序を乱すなと・・・。
しかし、福音は生活習慣を変革するする力をも持っています。

このようなむずかしい現実の中で、
クリスチャンとして、どのように生きて行くかが問題なのではなくて、
むずかしい現実にたいして、どのような行動を取るべきかではなくて・・・。

なりよりも優先するのは、福音を明らかにすることではないでしょうか。

福音が明らかにされれば、
人間の持つ弱さ愚かさ未熟さも明らかになります。
人間の本性が明らかになれば、
口を閉ざし、神に聞き従わなければならなくなるのです。

イエス・キリストは、すべての人のために死なれたのですから。
特定の人たちのためにイエスは死なれたのではない。
救いを必要としているのは、すべての人たちなのですから。

神ご自身との和解を必要としているのは、
私たち被造物である人間なのです。

すべての人が直面する、もっとも重要な問題なのです。

すべての人間に共通している事柄にたいして、
聖書・バイブルは語り示しているのです。

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自身と和解させ、
違反行為の責めを人々に負わせないで、
和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」

(新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第2の手紙・5章19節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on October 30, 2016.