日本という社会の中の福音



多くの人は気づいていないかもしれませんが、
日本という社会は、
日本語と伝統的な習慣に支えられた社会と言えます。
決して多様な人種と言語と習慣のある社会ではありません。
見方を変えれば、
豊かな多様性を持つ社会を形作っているとは言えないのです。

その中で日本のキリスト教の教会が、
日本社会の中の、ある一部分をターゲットにして語ろうとするなら、
それは、普遍性のある、
すべての人に共通するメッセージとは言えないのです。

”ひとりがすべての人のために死んだ”という福音から離れたものになります。
しかし、日本の教会は気付いていないかもしれません。

日本のキリスト教の教会でよく見られるケースです。
現代社会の病理に傷ついた人たちが、
共同社会から拒絶されることへの不安や恐れから。
自分の存在や働きが認められない不安から・・・。
自分の思うとおりにならないいらだちから・・・・。
自分を認めてくれる場所を求めて・・・・・。
それをキリスト教に求めようと・・・・・。

なぜ、励ましの言葉が欲しいのでしょうか。
教会という権威から認められることによって、
自分の立場を、
自分が築いてきたものを守りたいという願望があるからでしょうか。

教会は、
教会という権威から、権威と思わなくても、
励ましを与えることが任務だと考えているのでしょうか。
それが日本の社会の中での役割だと考えているのでしょうか。

それでは、ひとりの人がすべての人のために死んだという、
キリストの十字架の死による贖罪という出来事は意味を失うのです。

キリストの十字架の死は、
病んでいる人たちだけの問題なのでしょうか。
限られた人たちのためにキリストは十字架に死なれたのでしょうか。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。
私たちはこう考えました。
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、
すべての人が死んだのです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on February 02, 2015.