行ないによらず信仰による



さて、すべての人間は罪深く罪人だと、
くりかえしくりかえし明らかにしていますが、
この見解には、異議を唱える人も多いものです。
そのような考えは、間違っている、反対であり不賛成だと。
善良だからこそ救われなければならないと声を大きくする人も多いものです。

最初の人間アダムが創造主なる神に背いてからというもの、
人生に死が入り、
地上を労苦してさ迷い歩かなければならなくなったわけです。
アダムに続く人類はことごとく罪深い性質を負って生まれてくることになります。
それを”原罪・ゲンザイ ”と言います。
すなわち、”すべての人は罪の下にあるのです。”

「なぜなら、律法を実行することによっては、
だれ一人神の前で義とされないからです。
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章20節・新共同訳聖書)

神の命に従わず、神に聞かず、
神に背き続けている弱く愚かな人間たち・・・。
ということは、
私たちの、思いや、言葉や、行為や行動は、
ことごとく罪深い性質のあらわれだということになります。

文化的で近代的な社会や生活の中にいる私たちですが、
それらに疑問符を突き付けなければならないかもしれません。
すべてが罪の産物だとしたら・・・。

聖書・バイブルは次のように言っています。
「なぜなら、わたしたちは、
人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、
信仰によると考えるからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章28節・新共同訳聖書)

クリスチャンは何かと人一倍行動に熱心です。
しかし、この聖書の言葉からすれば、
その熱心さは正しい認識に基づくものではないかもしれません。

「ところが今や、律法とは関係なく、
しかも律法と預言者によって立証されて、
神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。
神はこのキリストを立て、
その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。
それは、今まで人が犯した罪を見逃して、
神の義をお示しになるためです。
このように神は忍耐してこられたが、
今この時に義を示されたのは、
御自分が正しい方であることを明らかにし、
イエスを信じる者を義となさるためです。
では、人の誇りはどこにあるのか。
それは取り除かれました。
どんな法則によってか。
行いの法則によるのか。
そうではない。信仰の法則によってです。
なぜなら、
わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、
信仰によると考えるからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章21〜28節・新共同訳聖書)

私たちは、とかく、
そうしなければならないと思うものです。
しかし、その外に、
それとは別に、
神の意志、神の望みが明らかになったのです。

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事において、
明らかにされた神の意志、神の望み・・・。

キリスト・イエスは、何のために死なれたのでしょうか。
あなたのためにも・・・・。
すべの人のためにも・・・。

私たちの間違った思いや行動は、
信仰によって終わらせなければなりません。

まずは歩みを止めて、
自分を見直してみることでしょうか。


北白川 スー

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Wrote up on October 11, 2013.