なぜ福音が語られないのか



 よく次のような福音についての説明をうけることが多い日本です。

 福音とは、イエス・キリストと共に歩むことだと。

 イエス・キリストを心に迎え入れ、

 人格的な関係を持つことだと・・・・。

 福音の意味は、イエス・キリストと共に歩む日常を築くことなのだと。


 「 イエスはまた彼らに語って言われた。

 わたしは、世の光です。

 わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、

 いのちの光を持つのです。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・8章12節・新改訳聖書)


 この聖書の言葉にあらわされている様子が福音なのだと。

 イエス・キリストを信じることによって神の子とされ、

 イエス・キリストに信頼し導かれて歩んでいくことなのだと。

 しかし、この説明には ”キリストの贖罪 ”が抜け落ちています。

 創造主なる神への罪から救うため、

 キリスト・イエスが、

 すべての人間に代わって、その罪を身に負い、

 十字架にかかって死なれたこと。

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事。

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の解き明かしが抜け落ちているのです。

 なぜキリストの十字架による贖罪が語られないで、

 信仰について語られるのでしょうか。

 福音を外した、福音のない、

 神の啓示なき信仰も、

 神の啓示なき教会も、それはそれでありですが、

 それは、少数派に甘んじることを意味しています。

 神の啓示は、グローバルかつスタンダードなのですから。

 福音は、すべての人が対象なのです。

 神にたいする祈りの中で、

 キリスト・イエスの十字架の出来事抜きの祈りがあるとすれば、

 その祈りを神は聞いてはくださるでしょうが、

 問題は残るのではないでしょうか。

 そして、罪について、罪の赦しについて、

 さらに、神の裁きからの救いについて・・・・。

 なぜ、キリスト教の信仰において最も大切な事柄であり、

 教会を信仰を決定づける事柄が説明されないのでしょうか。

 「救い」とは、

 人間的なさまざまな苦悩からの救いだとしたら。

 苦しめられている人間関係や病気や経済的な苦境や災害や災難や争いなどから救われることが、

 それらから解放されることが救いであっても・・・・。

 決して、教会が語ることのすべてではないのです。

 最も大きな問題は、

 ”神との和解 ”ということなのです。

 ”救い ”とは、やがて来る、必ず来る、

 人間にたいする神の怒りの裁きからの救いこそ救いそのものなのです。

 そうでなければ、

 神のひとり子・イエスが救い主としてこの世界に来る必要もないのです。

 キリストが十字架で、その命を捧げる必要もないのです。

 キリスト教の教会や信仰から、

 キリストによる神との和解の行為を取り去ったなら、

 その信仰は、教会は、

 人間的な道徳や倫理を語る、

 この現実社会の中をどのように生きていくのかを語るだけの場所になってしまうのです。

 イエス・キリストの生と死と葬りと復活という出来事によって証しされた・・・、

  ”神の啓示 ”というものを通さずに、

 私たちのところに福音が届くとしたら・・・・。

 それは福音ではなくなってしまいます。

 クリスチャンとは何でしょうか。

 聖書・バイブルは、神の啓示を聞き、

 また、見た人たちの証しに満ちた書物です。

 イエス・キリストの十字架の死と葬りと復活という出来事を、

 すなわち神の啓示の証しを、

 与えられ、受け入れ、

 承認することによって信仰者とされたはずです。

 その啓示に基づいて教会はこの世界に建っていますし、

 クリスチャンもキリスト者として存在しているのです。

 もっとも大切な事柄は、

 やがて来る、必ず来る、神の怒りの裁きのとき、

 私たち人間は、神から救われなければならないということなのです。

 しかし、救ってくださるのも神なのです。


 「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びないで、

 永遠の命を得るためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、

 世を裁くためではなく、

 御子によって世が救われるためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)


 福音なきキリスト教もありますが、

 福音は届いていますかと問う前に、

 福音が語られているのどうかを問い直す必要があるのではないでしょうか。


 「・・・・・キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、

 ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、

 二度目は、罪を負うためではなく、

 彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」

 (新約聖書・ヘブル人への手紙・9章26〜27節・新改訳聖書)


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on September 04, 2012.