福音と言えば
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福音・ふくいん・良き知らせ、グッドニュース・ゴスペルと言われるもの。
みな同じ意味をあらわしています。
福音と言えば、聖書・バイブルが語っているように、
「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、
主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・11章26節・新共同訳聖書)
すなわち、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事をです。
この出来事こそ福音の内容であり本質なのです。
主が来られるときまで、主の死を知らせる・・・・、
主が来られるときとは、キリストの再臨をあらわしています。
再臨とは、世の終わりの日に、
キリストが再びこの世に来られることを言っています。
なんとも理解しがたい事柄なのです。
この理解しがたい事柄が、教会において、
常に私たちに向かって、くりかえしくりかえし、
説かれ解き明かされているとは言いがたいのが日本の現状かもしれません。
ですから、さらに、理解しがたいものにしているのではないでしょうか。
イエス・キリストの十字架の出来事は、
ひとりの人がすべての人の罪のあがないのために死んだということは、
すべての人にかかわりがあり、
すべての人が負っているもの・・負債・・がなければ、
イエス・キリストがすべての人の罪をその身に負って死ぬことによって、
その罪をあがなったという出来事は成り立ちません。
つまり、私たち人間の本性的な事柄が明らかにされなければ、
生まれながらに、すべての人がかかわり、
すべての人が負っている負い目というものが明らかにされなければ、
その負い目を取り除いたイエス・キリストの存在は理解できないはずなのです。
罪のあがないがなければ、罪の赦しはありませんから、
キリスト・イエスが死をもって罪をあがなってくださったという、
すべての罪を赦してくださるという出来事にたいする信仰というものは導き出されないはずです。
それ以外の信仰も多々あるのも事実ですが。
私たちは人間は、ひとりの例外もなく罪深い存在だということです。
そうでなければ、
メシア・救い主としてのキリスト・イエスが、
この世界に生まれ来る必要などないのですから。
私たちがときどき罪を犯すから罪深いのではなく、
常に罪深く、欠陥を持った存在なのですから、
何事においても的外れとなり、常に罪を犯しているのだということ・・・。
私たちの罪深さには神の裁きが待っています。
だから救われなけれぱならないのです。
常に罪深いのはなぜかということが、
その理由が明らかにされなければ、
キリストの福音も理解されはしないでしょう。
「このようなわけで、
ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、
ひとりの義なる行為によって、
いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章18節・口語訳聖書)
ひとりの罪過によって・・・最初の人間アダムが神に背いた出来事を示しています。
ひとりの義なる行為・・・イエス・キリストの十字架の死によるあがないの出来事を示しています。
人類の始祖であるアダムとエバが父なる神に背くという罪を犯すことによって、
人類はことごとく罪の性質を持って生まれくるようになったのです。
ひとりの人によってすべての人が運命づけられてしまったのです。
この罪を赦すためにどうすればいいのか、
罪人を救うには罪のない者が身代わりとなって、
その命をもって罪を「贖、あがなう」よりほかありません。
父なる神は、ひとり子イエス・キリストを地上へつかわし、
罪を知らないイエスを罪人として、
十字架につけ処刑することによって、
そのイエスの上に神の怒りを下し、
罪のあがないを完成されたのです。
どのような罪人であっても、
このイエス・キリストの十字架の出来事を自分のこととして見つめ、
イエス・キリストを自分のあがない主と信じる者は、
そのすべての罪は赦され、
父なる神と和解し、
再び神の子として受け入れられるのです。
キリストへの信仰とは、
自分自身の罪深さというものを見つめるところから始まるのではないでしょうか。
人間という存在は、常に、欠陥と的外れの状態の中にあるのです。
なかなか気づきのないのが日本人の特徴かもしれません。
北白川 スー
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Wrote up on November 02, 2016.