東日本大震災・・復興への希望
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 地震・津波・そして原発・・・長引く避難所生活。
 大震災からすでに2ヶ月、いまだに苦しい生活を余儀なくされている。
 体力の、また精神的な限界はすでに過ぎ去っている。
 残されたのは、ただむなしさだけなのだろうか・・・・。
 復興へのビジョンは、いまだに何も明らかにされてはいない。
 多くの教会やクリスチャンたちも被災した。
 教会は、またクリスチャンたちは、
 絶望の淵に立たされている人たちにたいして、
 明日への希望を語ることができるだろうか。
 明日への希望を語れるクリスチャン・・はどれだけいるのだろうか。
 「 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
 被造物だけでなく、“ 霊 ”の初穂をいただいているわたしたちも、
 神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
 見えるものに対する希望は希望ではありません。
 現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・8章22〜25節・新共同訳聖書)
 希望とは、いまだ見ないものにかける望みである。
 キリスト教の信仰とは、いまだに見ないものにたいする希望ではないのか。
 たとえ震災からの復興が長引いたとしても、
 気落ちすることなく、復活への確信を抱いて、
 その気持ちをかたく持って待ち望むことにあるのではないのか。
 その希望のよりどころは、
 信仰しているこの世界を造られた神にあるのだから。
 十字架にかけられ死んで、葬られ、
 死人のうちから復活されたイエス・キリストにあるのだから。
 いまだ見ないものへの確信に欠け、
 祈りにすがる思いだけがあるなら、
 それはむなしい信仰ではないのか。
 復活への確信を明らかに言い表すのがクリスチャンとしての信仰ではないのか。
 「 約束された方は真実な方ですから、
 私たちは動揺しないで、
 しっかりと希望を告白しようではありませんか。」
 (新約聖書・ヘブル人への手紙・10章23節・新改訳聖書)
 この100年の間に3度も未曾有の大震災を経験した三陸の人たち、
 再び悲しく苦しい思いを繰りかえさないために、
 悔い改めるところは悔い改め、
 自然豊かな郷土を復活させようではないか。
 また、東海、東南海、南海地震が迫っていると言われている・・。
 福島や三陸の人たちの経験は活かさなければならない。
 「 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。
 神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、
 死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、」
 「 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、
 キリストによって信じています。
 従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」
 (新約聖書・ペテロの第1の手紙・1章3・21節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 08 May 2011.