キリストと共に死ぬ



 「 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23節・新共同訳聖書)

すべての人は罪人だという前提に立つのがキリスト教の考えです。
もしも、私は罪など犯してはいないと言うならば、
自分を偽り、自分をごまかし、
うそを言っていることになります。
人は、もともとけがれのない状態で生まれてくるが、
社会の悪い環境によって悪くなるのだと、
多くの人は、そのように信じています。
しかし、聖書が示しているのは、
すべての人間は、罪のない体で生まれてくるのではなく、
罪深い性質を負って生まれてくるのです。
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
だれひとりの例外もなく、
人間のすべてが罪人でなければ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が起きる必要は生まれてはきません。
このイエス・キリストの十字架の出来事の核心は、
この出来事の中心となっている大事な部分は、
死んだ者は罪から解き放たれることを意味しています。
キリストと共に十字架につけられるということは、
罪の支配から抜け出し、
罪は、人を縛る権威を失い、
罪は、主導権を奪われることになります。

 「 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、
その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、
わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、
その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪に支配された体が滅ぼされ、
もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きることにもなると信じます。
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。
死は、もはやキリストを支配しません。
キリストが死なれたのは、
ただ一度罪に対して死なれたのであり、
生きておられるのは、
神に対して生きておられるのです。
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、
キリスト・イエスに結ばれて、
神に対して生きているのだと考えなさい。
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、
体の欲望に従うようなことがあってはなりません。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章4〜12節・新共同訳聖書)

キリストへの信仰を得た者は、
キリストと共に十字架につけられた以上・・・、
罪深さから抜け出し、
新しい人間として、
キリストと共に生きることが希望となります。
もしも、今までの自分の生き方にたいして肯定的な評価を得たいと思うのなら・・・。
それは、自分を偽っています。
罪は、眼に見えるものです。
私たちは常に人間の愚かさ弱さ罪深さを体験しています。
自分の正しさを主張したいのなら、
それは自分の罪深さから眼を背けることになります。
自分を偽っています。
キリスト教の信仰は、
決して自分の義を求めるものではないからです。
罪深いから成立する信仰と言えます。

 「 わたしたちは、この事を知っている。
わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。
それは、この罪のからだが滅び、
わたしたちがもはや、
罪の奴隷となることがないためである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章6節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on October 16, 2012.