キリスト教は、ばかげている



この日本では、キリスト教の信仰は、
実にばかげていると言う人は多いものです。

キリスト教は、
日本では少数派ですが、
世界を見れば、
大勢力を見せているのです。
なぜでしょうか。

創造主なる神による天地創造に始まり、
最初の人間の堕落により、
地は呪われ、人間の生に死が入り、
労苦してさ迷い歩くこととなった人類、
それに続く、神の全人類への救済計画・・・・。

つまり、ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事・・・。
キリストの生と死と葬りと復活によって、
備えられた創造主なる神の救いの計画・・・。

・・・それらを信じているなんて実にばかげている、
矛盾だらけだ・・・。
まあ正直な感想ですね。

聖書・バイブルは次のように語っています。
「 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、
キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・15章22節・新共同訳聖書)

これが、キリスト教の信仰を貫いているテーマです。

生きるものとして創造された人間。
しかし、最初の人間アダムが創造主なる神に背いたことによって、
アダムに続くすべての人間は死ぬことになったわけです。
しかし、また、ひとりの人間のキリストによって、
すべての人類に命が与えられることになったのです。
信仰によって・・・・・。

これら一連のことを信じる・・・・。
それがキリスト教の信仰であるわけです。
言いかえれば、
おどろくべき神の不思議、
そして、神の慈愛、慈悲の奇妙さ・・・を、
それを本気で信じるということです。

ここに大きな飛躍があるわけです。
この飛躍によって、
人間を取り巻く現実に起きている様々な深刻な問題。
これらの俗世の深刻さは、
それほど問題とはならなくなるのです。
方向を変える向きが視野に入っているからです。

キリスト教的な生き方というものが、
地位や富を求めない、
それらとは縁の遠い生活に安んじるという・・・、
清貧な暮らし方というものが、
世俗を深刻なものと見ないからなのです。

聖書は明確に、
律法の外に、
律法とは別に福音が明らかになったと語っているからです。

人間社会を考える場合、
プロテスタンティズムの倫理と精神が、
経済や教育や医療や生活などなどに、
大きく影響を与えるものとなるからです。
すべての行為において信仰を示すからです。

しかし現実は、
プロテスタンティズムの倫理と精神によって社会を築いてきたアメリカやヨーロッパは、
プロテスタンティズムの倫理と精神から遠いものになってしまっているのです。
それが現実のアメリカやヨーロッパの姿なのです。
今や、再び神に立ち返る必要性が生まれていると言っていいでしょう。

キリスト教徒であっても罪人です。
罪深い性質である以上、
創造主なる神から目を背ける危険性を、
常に持ち合わせているからです。

便利になった、
技術革新も経済発展も、
豊かになった暮らしも、
実は、すべて罪の成せる業なのです。

私たち被造物としての人間は、
最終的には創造主なる神の手に委ねられていることを忘れてはなりません。

キリスト教の信仰は、
生きている者のためにあり、
死んだ者のための宗教ではないからです。

ばかげていると見るか、
真理だと見るか・・・・。
それは、あなたの心に委ねられています。


北白川 スー

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Wrote up on May 18, 2013.