クリスチャンの死・死後の世界


 死後の世界への不安・・死んだあとの世界への不安は、

 人の死を恐ろしいものへと変えてしまいます。

 安心して死ねないところに不安があるのです。

 クリスチャンであっても年齢を重ねれば、

 いつかは死をむかえることになります。

 しかし、

 その死は、決して恐ろしいものではないのです。

 むしろ、安心して死ねると言っていいのです。

 クリスチャンには、死後の命への確信があるからです。

 ですからクリスチャンの葬儀式は、

 残された者には、うちひしがれた様子などありません。

 深い悲しみと絶望感など少しもありません。

 それは、神への感謝のとき、喜びのときなのです。

 イエスを信じた者は、永遠の命へと移されるからです。

 では、その死後の命への確信とは、どこからくるのでしょうか。

 それは、イエス・キリストの復活にあります。

 イエス・キリストは十字架にかけられ、

 罪人として、すべての人の罪をその身に負い、

 命をささげることによって、

 私たちの罪を贖って(あがなって)くださったのです。

 そして葬られ、

 三日の後に死人のうちから復活されたのです。

 イエス・キリストが死から復活したことによって、

 死後の世界があることを証明されたのです。

 だから、クリスチャンの死は、

 その死の先に希望があるのです。

 聖書・バイブルは、人には神の裁きが待っていると語っています。

 「 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、

 善であれ悪であれ、

 めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、

 報いを受けねばならないからです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・新共同訳聖書)

 「 口でイエスは主であると公に言い表し、

 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、

 あなたは救われるからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)


 イエス・キリストを信じて、神の裁きから救われた者は、

 つまり、

 神の裁きの前に立ったときに、

 その人の人生のすべての汚点が、

 すべての罪の記録がすべて消されているのです。

 イエスを信じて信仰を持った者は、

 クリスチャンは、

 天国の書には、罪の記録はいっさい無いからです。

 ですから、死後の世界は、

 永遠と続く地獄の世界ではなく、

 永遠の命へと移されるのです。

 不安を抱えたまま死ぬことへの恐れ・・・ではなく。

 キリスト教は、死後の希望を与えてくれるのです。

 イエス・キリストのよみがえり、復活は、

 私たち人間の、地上の生涯・地上の人生の先に、

 もっと素晴らしい世界が待っていることをあらわされたのです。

 キリスト教の信仰生活は、

 死ぬことが不安な人生ではありません。

 むしろ、人生のゴールが明確であり、

 確信に満ちた人生を送ることができるのです。

 イエス・キリストへの信仰を持ったとき、

 生き方が変わる、生き方がかわるときなのです。

 人生のゴールから見た、

 人生を送ることができるのです。

 人生の目標のない人生ほど、むなしく不安なものはありません。

 社会福祉制度が整えられて、長生きする社会になりました。

 老人介護施設もたくさん作られました。

 しかし、死なせない介護や医療、

 医療や介護とは死なせないことです。

 医療に、介護において、何かの問題が起きれば、

 それは、責任問題なのです。

 長生きをすればするほど不安の種は大きくなり続けます。

 安心して死ねないところに大きな不安があります。

 安心して死ねる介護などないのでしょうか。

 安心して死ねる医療などないのでしょうか。

 死後の命の確信がなくて、

 死ぬことが不安な人生・・・それほど不幸なものはありません。

 希望を抱いて死にたいものです。


 「 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、

 神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章11節・新改訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on 15 May 2011.