キリスト教の信仰と死
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クリスチャンであっても ”死 ”にたいして不安を覚えている人は少なからずいます。
クリスチャンが言うに言われぬ不安を覚えているのは、
イエス・キリストへの信仰を持ったものの、
初めに始まった信仰そのものが、
人がもともとから持っている精神的な不安から始まったものであるため、
キリストの福音が解き明かされてこそ、
その不安の原因が明らかにされ、
その不安が、具体的な安心へと変えられるのです。
「 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。
キリストは死を滅ぼし、
福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」
(新約聖書・テモテへの第2の手紙・1章10節・新改訳聖書)
キリスト教の信仰と死とは切っても切れない関係にあります。
人はいずれ必ず死をむかえます。
しかし、安心して死ねないところに不安があります。
死への恐怖とでも言いましょうか。
死後の世界がイメージできないからです。
死ですべてが終わるとは、人間の脳は考えないのです。
死には続きがあることを暗に知っているのです。
私たちの命は、ある存在に支配されコントロールされていることを・・・。
私たちの命は、この世界を創造された創造主によって与えられたものなのです。
創造主なる神によって吹き入れられた命なのです。
「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。
人はこうして生きる者となった。」
(新約聖書・創世記・2章7節・新共同訳聖書)
では、死はどのように私たち人間に入ってきたのでしょうか。
「 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、
罪によって死がはいり、
こうして死が全人類に広がったのと同様に、
――それというのも全人類が罪を犯したからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章12節・新改訳聖書)
人間の始祖であるアダムが創造主なる父なる神に背いた、
エデンの園の出来事によって、
死が私たち人間に入ってきたのです。
では、その死の恐怖から、
私たちはどのようにして解き放たれるのでしょうか。
それこそ、イエス・キリストへの信仰そのものなのです。
「 キリストは死者の中からよみがえって、
もはや死ぬことはなく、
死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、
ただ一度罪に対して死なれたのであり、
キリストが生きておられるのは、
神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、
神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章9〜11節・新改訳聖書)
死にたいして不安を覚えているクリスチャンがいるなら、
キリスト教の信仰とは、いったいどういうものなのか、
ということを改めて考えなおさなければならないかもしれません。
決して、信仰はカルチャーから始まるものではないことを、
もともと、私たち日本人が抱いている、
誤ったキリスト教へのイメージを、
取り去らなければ、
つまり、強いて言うなら、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、
イエス・キリストの死と葬りと復活という出来事の内容と意味との、
解き明かしが、くりかえしくりかえし、
教会で語られなければ・・・。
いずれおとずれる世界の終末のとき、
神の裁きから救われることこそ、
死から永遠の命へと移されることこそ・・・福音の中身なのだと。
永遠の存在として創造された人間、
神にたいして罪を犯した結果、
人間の生に死が入ってきて、支配するようになったのです。
しかし、死人のうちから復活したキリストへの信仰によって、
再び永遠の命へと移される・・・・。
だから安心して死をむかえることができるのです。
北白川 スー
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Wrote up on 16 May 2011.