キリスト教が言うところの罪とは
聖書・バイブルのテーマは、
何といっても ” 人間の罪 ” です。
人間の罪を考えない信仰は、
聖書的な信仰ではありません。
キリスト教が言うところの罪とは、
すべての思いや行為の源・みなもとになっているものなのです。
ときどき罪を犯すから罪深いのではなくて、
つねに罪深いから、ときどき罪を犯すのです。
社会の悪い環境が人を悪くするのではなくて、
生まれながらに罪深いのです。
人間は、だれひとりの例外もなく、
罪深い性質を負って生まれてくるのです。
けがれのない、かわいい幼い子供まで罪人だと・・、
そんなバカな、とよく言われます。
幼子のしぐさは、物事がよく分かっていないことからくる無邪気さをあらわしているわけですから、
罪のないかわいさではありません。
「わたしは咎(とが)のうちに産み落とされ、
母がわたしを身ごもったときも、
わたしは罪のうちにあったのです。」
(旧約聖書・詩篇・51章7節・新共同訳聖書)
聖書・バイブルが語ろうとしているのは、
すべての人は、創造主なる神にたいして罪を負っていることなのです。
すべての人は、この世界を造られた神の怒りと、
神の裁きによる刑罰に服するために生まれてくるのです。
私たちは、人生の中で、
さまざまに罪を重ねて生きています。
自分の罪がどんなものであるかを知らないで、
ますます、神の怒りを積み重ねているのです。
歓迎するわけにはいかない、
数え切れないほどのニュースにあふれた日々を送っている私たちの姿こそ、
その証明なのです。
私たちの人生は死で終わるわけですが、
言い換えれば、
全生涯において、自らの上に、神の裁きを積み上げながら人生を送っているのです。
「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、
また罪によって死がはいってきたように、
こうして、すべての人が罪を犯したので、
死が全人類にはいり込んだのである。
というのは、律法以前にも罪は世にあったが、
律法がなければ、罪は罪として認められないのである。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章12〜13節・口語訳聖書)
人間の本性的な罪深さについて知らされてこそ、
人は、自分の弱さ、貧しさ、愚かさ、みじめさを思い知らされてこそ、
罪に染まっている自分自身を見出してこそ・・・・。
そのようにして初めて、神の前にひれふすことになるのです。
この世界を造られた神への罪、
被造物としての人間の罪を贖う(あがなう)ために、
神は人として地上に来られて、
その裁きを自らの上に引き受けられたのです。
それが、ひとりの人がすべての人のために死んだというイエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
自分は罪など犯していないと言うならば、
イエスが十字架にかけられ死なれたという出来事は意味を失います。
北白川 スー
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Wrote up on 17 January 2011.