とらわれからの解放



聖書・バイブルが、声を大にして、示し物語っているのは、
私たちが、知らず知らずに囚われている、とらわれからの解放なのです。

・・何からの解放・・・?、
いま、真剣に悩んでいることからです。
思い煩ずらわなくてもよいことに囚われ、わずらっている状態から、
捕らわれ、囚らわれていることにすら気付いていない状態から。
不足していると思って追い求めているものから、
劣っていると思って得たいと願っていることから、

それが手に入れば幸せになれると思っている、それからです。
私たちの心に植え付けられた、そうあらねばならないという感情からです。
それが手に入れば幸せになれるということをです・・・。

手に入らないから苦しんでいるのに、
それを、あきらめろというのですか・・・。
満たされないから苦しいのに、
それを捨てろというのですか・・。
・・・・・・・。

キリストが伝えようとしていることは、
欲しいものを手に入れることではなくて、
失いたくはないと思っているものを捨てるということなのです。
しかし、私たちは、失うことに意味を見いだすことなど、とても困難です。

手に入れることが幸せであり、失うことは不幸、悲しみなのですから。
わたしたちは、失うことに必死に抵抗します、
失いたくないと、かたくなにしがみついているのです。

でも考えてみてください。
不安や心配から解き放たれたら、どんなにか楽なことでしょう。
自分を縛りつけていたものから、自分を縛っていた重荷から解き放たれたら・・、
どんなに楽なことでしょうか。
それが自由というものです。

人は満たされず、それが手に入れば幸せになれると信じています。
しかし、キリストは、それを捨てろと、さとすのです。
わたしも捨てたから・・・と。

「わたしのあとに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いない。
 自分のの命を救おうと望む者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

(新約聖書・マタイによる福音書16章24〜25節・フランシスコ会訳)

私たちの、他に比べようのない唯一の望みは救われることです。
捕らわれからの解放、思い煩いからの解放なのです。
だから手に入れたい・・・・。

神は、ご自身のひとり子イエスを通して、私たちに語られました。
救いはただひとつ。
神の啓示を受け入れることだと。
ひとり人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを受け入れることだと。
キリストの十字架の出来事を除いたり、
キリストの十字架の出来事をを考えないで自分で自分を救おうとするなら、
キリストの福音による救いに代わるものが他にあると思うのなら、
それが、思いわずらいのそもそもの原因なのです。

キリスト教の信仰は、個人の利益を追い求めるものではありません。
人間の本性的な愚かさ弱さを明らかにするものなのです。
そうしなければ、そこからの解放はありません。


北白川 スー

関連記事・「こころの風景」

表紙にもどります。

アーカイブスへ。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on April 12, 2015.