イエスは、決して罪を犯さなかった
聖書・バイブルの記述は、イエスが決して罪を犯さなかったことを前提としなければ、
イエスがキリスト、すなわち救い主・メシアではなくなってしまうからです。
私たちすべて人間の罪のつぐないを、罪を認めないその身に受けて死ななければ、
あがないは完成しないことになるからです。
まあ、おおかたの人たちは信じないでしょう。
そんなはずはないと・・・。
自分自身をふりかえってみても、自分たちの正直な姿を見ても、
私たち人間は、罪を犯さないことなど有り得ないと知っているからです。
人間は、もともとから罪深い存在なのだということを知っているからです。
キリスト教信仰というものの基本はここにあります、
キリスト・イエスが、完全な道徳的な手本とならなければ、
人間社会の秩序を保つための規準とならなければ、
私たち自身が、イエスに似た姿に変えられる希望がなければ、
基準はイエスにあるわけですから、
私たちの手本がイエスなのですから、
聖書・バイブルの記述を、人生の指針にすることなどできません。
まあ、これもまた難しい話しなんですが、
私たちがイエスを真似て、その通りするにしても、
それは難しく不可能に近いことでしょう。
ですから、助けが必要なのです。
神のひとり子イエス・キリストという基準には、
私たちは、どんなに手段を尽くして及びません。
実現不可能でしょう。
私たちは、常に罪を犯す危険性を持ち合わせていますし、
罪を犯すのですから。
ですから、だれかが私たちを助けてくれなくてはならないでしょうし、
”赦し”ゆるしが必要なのです。
その方こそ、キリスト・イエスなのです。
私たちに、どのように生きるべきかを教え示してくださるのです。
イエスの言葉によって、それが聖書の言葉なのです。
それが信頼です・信仰なのです。
行為ではなく、信仰は聞くことから始まるのです。
人生に重要な変化をもたらすものこそ、
イエスの言葉なのです。
イエスそのものなのです。
イエスは罪人をゆるされたように、私たちをゆるしてくださいます。
いや、そうではなくて、
人はもともと善なるもので、
悪い環境や社会が人に影響して罪を犯させるのだ・・・。
では、環境を社会を悪くしたのはいったい誰なのか・・・・。
「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。
あなたには弁解の余地がない。
あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。
さばくあなたも、同じことを行っているからである。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・2章1節・口語訳聖書)
なぜなら、神を知りながら、神を神としてあがめることも、
感謝することもせず、
かえって、その思いはむなしくなり、
心がにぶくなり暗くなっているのです。
北白川 スー
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Wrote up: 11 July 2008.